近世の大本願上人は、中興開山智慶から幕末・明治初年の誓円まで九代である。転住する大勧進住職と異なり、上人は他へ転住することなく、在職平均年数は三六年で大勧進住職よりははるかに長い。ただ、大本願は智慶上人のとき、江戸に土地を拝領して新善光寺(のち青山善光寺)を建て、そこに住むようになって以来、青山善光寺が常住地になって、信濃本寺へは開帳とか、特別のときしか来ないようになった。たとえば、在任宝暦三年(一七五三)から寛政二年(一七九〇)までの智観上人は、在任三八年のあいだ、前半は在府・在国が約半分ずつだったが、三四歳以降は約一四年間のうち、二回帰国して約二年滞在しただけである。智観上人は、在任中全期間にわたって日記を書きつづけたが、その大部分は将軍への「年頭御礼献上物之事」などの儀礼に関することである。じっさいの実務は老尼や役人がおこなっていた。
大本願分の二三六石については大本願が直接統治していた。「大本願様は女でいらっしゃるから、御内衆まで御非分はなく、人足をお使いになっても御扶持をくだされ、御慈悲がある」(寛永十六年大門町訴状)と領民の受けも大本願のほうがよかったらしい。天明六年(一七八六)伊勢御師(おし)荒木田久老(ひさおゆ)が継目披露(つぎめひろう)のため善光寺を訪れたとき、大勧進と大本願を表敬訪問し、大本願のほうが待遇がよかったことを日記に記している(『五十槻(いつき)園旅日記』)。それだけ経済的に余裕があったのだろう。
しかし、大本願の経済もしだいに困窮におちいったらしく、文化十三年(一八一六)、財政の急を救うため無尽を始めたが、一般出資者への返金ができなくなり、けっきょく出資者たちは、三三七四両の出資にたいし四二〇両の払い戻しを受けたにすぎなかった。しかもそのうち、三六一両は世話人(有力町人)が出したもので「青山御手元金」は五〇両出されただけだった。