両寺の争い

238 ~ 239

室町時代後期には、善光寺の実権は「本願聖(ひじり)」とそのもとに属する妻帯僧たちが握っていたらしい。「本願聖」は男僧だったらしいが、いつか尼が中心となり、武田信玄が善光寺を甲府に移したときは鏡空智浄という尼が寺の統率者であり、本尊が京から帰られたときも、智慶上人が中心であった。

 いっぽう、大勧進も中世以来存続していたらしく、武田時代末期、妙観院が上杉景勝に大勧進別当に任ぜられ、以後数代にわたり妙観院としてつづいた。その時代、中衆出身の僧が二代にわたり大勧進住職になった。

 両寺の争いが訴訟事件になったはじめは、寛永十九年(一六四二)の「仮堂出入」である。その五月九日、仮本堂が焼失、大本願が仮堂を建てようとしたところ、大勧進が協力しようとしたので、大本願は「お堂の建立は古来大本願の権限である」と幕府へ訴えた。幕府の判決は「双方相談のうえ建てよ」という、ごく常識的なものだった。

 ところが翌寛永二十年、幕府で大きな権力を握っていた天海が、しばらく真言宗だった大勧進を天台宗に改宗させ、善光寺を東叡山寛永寺の末寺としてから、善光寺の実権は大勧進が握るようになった。元禄十三年(一七〇〇)、大勧進住職になった慶運は、大本願や三寺中を無視して回国開帳で資金を集め、本堂を造立した。本堂落成後まもなく、大本願は、大勧進と衆徒が新儀をかまえ、先例にそむく行為をしていると幕府へ訴えたが、敗訴に終わった。このあと、大本願は出開帳でも埒外(らちがい)に置かれ、法事などでも大勧進の下風に立たされた。明治維新のとき、たまたま大本願住職が皇族出身の誓円上人だったため、大本願は権利回復の運動を始め、両寺の紛争は長くつづいた。