円喜への下大門と三ヵ村の訴え

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寛永十六年(一六三九)、善光寺下大門町と寺領三ヵ村は、大勧進代官高橋円喜らの非法を幕府寺社奉行に訴えた。その要旨はつぎの三ヵ条である。①定期市を円喜門前(横町)にばかり立て、しかも押し買いをする。②円喜が代官になってから家がつぶれ、役をつとめる家が減り、しかも多くが円喜の被官になって、伝馬(てんま)役をつとめる家が少なく負担が重すぎる。③一三合入りの枡(ます)で年貢をとる。年貢米を高値で押し売りをする。

 これにたいし円喜らは返答書を提出し、つぎのように弁明した。①市について不正はしていない。薪は栗田殿のときは市役として一駄ずつ受けとっていた。また、七月には両寺(大勧進・大本願)で節木(せちぎ)(法事・節句などに使う木)を一駄ずつ一市留買(いっしとめが)いをするのを押し買いと間違えているのだろう。②一三合枡は両寺四代以前から使用している。売付籾(もみ)は在郷の百姓は七、八十俵ずつ引き請けているのに、下大門のものが五斗や一石のことで文句をいっているのはけしからん。

 この返答書では「昔からおこなっていることをやっているので、不正はない」という論理で一貫している。