高橋円喜は領民からの訴えにたいし、まったく反省していない。「寺領では前々からこのようにやっているから文句はあるまい」という論理で押しとおし、「寺領は慈悲の政治をしているので、領民がつけあがって困る」というようなこともいっている。円喜らには悪いことをしているという自覚はなかったが、かれらの考え方は近世的な政治の理念に反していることが明らかで、その矛盾がはっきりしてきた延宝(えんぽう)六年(一六七八)正月二十一日、七瀬村(芹田鶴賀)喜太夫が「御地頭様御内御年寄衆中」にあてて、願書を提出した。「親の代に田地を抵当にして代官高橋庄右衛門から借金をし、元利とも五三両になってしまった。庄右衛門は『書入れの田畑を全部差しだせ。他への売却は許さぬ』といっている。田地を売れば一〇〇両余になるから、せめて家屋敷と田畑の一部だけは残していただきたい。私は譜代の御百姓で、お役もつとめているものですから、御情に御百姓をつづけさせていただきたい」。
つづいて三月一日には七瀬村名主喜兵衛らが「庄右衛門殿が村民に金を貸し、百姓九人分の田地を取りあげて自作している」と訴えた。四月一日には寺領の鍛冶(かじ)屋七人が願書を提出した。「御代官高橋庄右衛門は前々から御役細工を仰せつけられていたが、数年前から田畑をだいぶ御手作りなされるについて、鍬(くわ)・鎌(かま)など農業の道具をいろいろ仰せつけられ迷惑しています」。寺役人が領民に金を貸しつけ、田地を取りあげ、それを自作するための農具を鍛冶屋につくらせるというのは、高橋氏自身の領主化ともいえるもので、領主大勧進としてはもはや放置しえないことであった。