善光寺の名目上の領主は本尊如来だが、事実上の領主は大勧進・大本願の住職だった。大勧進では重吽(じゅううん)(寛永七~九年)、その法弟重慶(同九~十九年)のつぎは中衆白蓮坊出身の重昌(寛永十九年~寛文六年)、同淵之坊(ふちのぼう)出身の重真(寛文六年~延宝八年)と二代つづけて中衆出身者が住職になった。大勧進住職重真と高橋庄右衛門は同じ中衆出身で、庄右衛門は大勧進住職の家来だとは思っていなかったらしい。さて、七瀬村喜太夫らの訴状をうけた大勧進住職は、庄右衛門に貸金の元金だけをとり田畑は喜太夫に返すように命じた。
庄右衛門は喜太夫を召しとり、その訴状をみずから否認する文書(もんじょ)を無理に書かせた。また、喜太夫と同じような訴状を出した箱清水村庄屋を捕えて代官宅の油蔵へ押しこんで、同じような文書を無理に書かせた。大勧進住職は新規登用の役人山崎藤兵衛らとはかり、延宝六年(一六七八)四月、庄右衛門に「闕所(けっしょ)、追放」を申しわたした。大勧進と庄右衛門、その兄随閑は、それぞれ幕府寺社奉行へ訴えでた。争点の第一は、「庄右衛門は大勧進の家来であるか否か」ということだった。庄右衛門は「祖先代々善光寺の譜代由緒のもので、善光寺の支配をしてきた」と申し立てたが、寺社奉行は、「高橋家は庄右衛門の親円喜の代から代官になったので、大勧進の家来だ」という大勧進の主張を認め、庄右衛門・随閑を入牢(じゅろう)させ、延宝七年六月には兄随閑も闕所追放した。