はじめ寺侍の地位は、はなはだ不安定で、多分に臨時雇い的だった。有力町民の場合は、寺役人をやめたあとも被官・町年寄・庄屋などをつとめることが多かった。
水科(水品)故左衛門は、戦国時代以来の有力町民の子孫で、高橋氏と並んで寺役人をつとめたが、元禄十三年(一七〇〇)、本堂再建工事の失敗の責任を問われて免職された。子孫は町年寄などをつとめた。
倉石小兵衛は、寺領つづきの栗田村(芹田)の有力百姓で、延宝六年(一六七八)、高橋家の没落と入れかわりに寺役人になり、以後二代にわたり寺役人をつとめ、主に手代(徴税など)役をつとめた。二代小兵衛(元文(げんぶん)元年、一七三六)は死亡前、後任に親戚(しんせき)の布野(ふの)村(柳原)中野治兵衛を推薦した。小兵衛の子孫はそのまま、栗田の有力百姓としてつづいた。
矢島吾左衛門は、もと会津浪人で大勧進へ侍奉公をし、身持ちがよいので長野村の庄屋を命じられた。矢島家は諏訪上社権祝(ごんのほうり)矢島家の分家らしい。権祝矢島家の分家が高遠保科家へ出仕し、保科(松平)家が会津へ移ったので会津へ移り、そのまた分家が善光寺に仕えたらしい。中衆ももと諏訪からきたと伝えられているから、その縁で善光寺に仕えたものか。矢島家はその後も長野村兼桜小路庄屋を世襲して明治にいたった。
山崎藤兵衛は、高橋氏が代官をつとめているころ寺役人をつとめていた。庄右衛門の暴政を訴える願書は藤兵衛らに提出されている。高橋一族追放については藤兵衛も一役買ったらしく、その後は藤兵衛が代官として活躍した。しかし藤兵衛は本堂再建という大事業の責任者の一人となり失脚する。そのあいだ、藤兵衛は退職と復任を繰りかえした。元禄五年の江戸出開帳のとき、何かの失策の責任をとって辞任し、領民の引き止め運動の結果、同十一年に復任した。ところが同十二年に大勧進住職によって免職された。庄屋たちはこれを不服として、「藤兵衛のかわりに、いまの家来のなかから代官が任命されても承諾しない。その場合は庄屋を辞任する」と申しあわせ、寺社奉行へ訴えた。ところが同十三年、門前の火災が本堂再建現場に延焼し、仮堂をはじめ建築用材が全焼してしまった。大勧進住職見海は辞職し、後任の慶運は工事費の収支をきびしく点検し、使途不明金九〇〇両のうち、山崎藤兵衛に四四一両、水品故左衛門に三〇〇両の弁償を命じた。藤兵衛は正徳(しょうとく)元年(一七一一)までに二二五両を上納した。子孫は町医者になり、名家として存続した。