譜代寺役人の成立

245 ~ 247

明治四年(一八七一)、両寺が提出した家来の名簿のうち、譜代(侍分)の家とその勤務年限はつぎのとおりだった。

 大勧進 六人

今井磯右衛門   天和(てんな)四年  (一六八四)から八代

上田丹下(たんげ) 天明二年      (一七八二)から三代

秋野一郎     天保十五年     (一八四四)から一代

南部数馬     嘉永五年      (一八五二)から一代

久保田周三    享保(きょうほう)八年(一七二三)から五代

中野欽二郎    元文六年      (一七四一)から六代

 (以上譜代)

馬島左文     寛文(かんぶん)十年 (一六七〇)から三代

岩下多門     文化八年      (一八一一)から三代

岩下環(たまき)  天保(てんぽう)十年 (一八三九)から一代

堤仙庵(せんあん) 元禄十五年     (一七〇二)から九代

細川覚兵衛    嘉永六年      (一八五三)から一代

 (以上抱)

 大本願 八人

 大勧進では代官今井家、手代中野家、家老久保田家がほぼ世襲的につとめ、上田・南部・秋野は、大勧進住職が着任するとき連れてきた家来である。譜代の久保田・中野が新参の秋野・南部の下になっている。中野治兵衛は、弘化四年(一八四七)大地震後に勧化金(かんげきん)を着服したかどで閉門され、ついで永蟄居(えいちっきょ)を命じられ、そのまま明治を迎えた。秋野は新参の寺役人だが、明治以後その子は長野学校長をつとめ、大正十四年(一九二五)『長野市史』を編さんした。

 今井家は明治三年(一八七〇)の松代騒動のとき、一揆(いっき)勢に襲われたが、家や古文書はそのまま保存され、文書は太平洋戦争後県立長野図書館へ寄贈され、現在は長野県立歴史館に保管されている。

 大本願役人は、柄沢彦三(三代以上)、山極慎吾(二代)、清水信夫(三代以上)、藤井休治(三代以上)、成瀬左守(一代)、徳武源吾(三代以上)、徳武仁左衛門(三代以上、坂口森右衛門(三代以上)の八人だった。