寺役人の任務

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寺役人は、寺領に関するすべての業務をおこなった。裁判は今井邸の白洲(しらす)でおこなわれた。文政八年(一八二五)まで、大勧進役人今井・中野が正面に、大本願役人柄沢・吉村がそのかたわらに着座し、その隣の部屋に町年寄と庄屋、つぎの部屋に書役・同心が着座し、町方呼び出し人は縁側で取り調べをうけた。この白洲は文政八年に改築され、寺役人・町年寄はそのままだが、庄屋らは一段下がって薄縁(うすべり)、町方呼び出し人席は土間になった。この白洲は、天保九年(一八三八)にさらに新築され、寺役人の席を一段高くし、土間にははじめて栗石が敷かれて白洲らしくなり、同心は白洲に平床を置いて控えることになった。これは大勧進住職から不遜(ふそん)であるととがめられ、今井磯右衛門が免職される一つの口実になった(図3)。


図3 今井家にある白洲の変遷

 年貢徴収も寺役人の重要な任務で、主に中野治兵衛が手代(地方(じかた)役)として担当した。久保田家は家老として大勧進内部のことを担当した。しかし、久保田内記のとき、享和(きょうわ)三年(一八〇三)の出開帳が欠損になった責任を問われて免職され、その娘に大勧進近習加藤金吾が婿に入って家をついだ。内記とその子は、幕府の寺社奉行へ出訴したが、復職はできなかった。