寺役人の給与は、代官今井が籾(もみ)七〇俵、小被官一三軒、刀被官二五軒、次席の上田が籾五〇俵、小被官一七軒、久保田が籾五〇俵、小被官一七軒などだった。小被官・刀被官などの給与は、一定の軒数の家から夫役(ぶやく)を徴発できる権利をあたえられるものであった。ふつうの藩士の禄でいえば、七〇石ないし五〇石くらいだろう。大本願役人はこれより少し低く、代官が籾三〇俵だった。
ただし、不動産の売買や訴訟事件の落着などのときは、役人に関係者から付け届けがあるのがふつうで、かなりの収入があったと思われる。今井家は、明治三年(一八七〇)十一月二十六日に松代騒動の一揆勢(いっきぜい)の襲撃をうけ、その後は料理屋として使用された。中野家は、長野県知事の公舎として使用された。二つの屋敷とも、松代藩の家老屋敷よりもりっぱで、かなりの生活をしていたらしいことがわかる。