寺役人の処罰と領民による留任運動

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寺役人は権限もあり収入も多かったが、大勧進住持の意向で任免できる弱い立場にあった。寺役人の筆頭である今井磯右衛門も、七代目、八代目がつづけて免職されている。

 六代今井磯右衛門は、柳荘(りゅうそう)と号する著名な俳人で一茶とも親交があった。文化八年(一八一一)柳荘が没し、嗣子(しし)が七代目磯右衛門となったが、文化十年善光寺町が食糧不足で人心が不穏になったとき、磯右衛門は責任をかぶせられて免職された。たまたま善光寺町に滞在していた小林一茶は、このことを文に書いている。「柳荘は俳諧(はいかい)を好んで、広く世に知られ、私も親交があったが、亡くなって三年ほどになる。その子が今井磯右衛門になって、親の役を受けつぎ、正しい政治をし、獅子(しし)のように威風りんりんとしてはむかうものもなかったが、今年八月二十九日、代官職を削られてただの人となりさがってしまった。あわれ、きのうは飛ぶ鳥も恐れておちた勢いも、今日は追う鳥もあなどって逃げない哀れなさまとなってしまった。一盛一衰は世のならいだが、いたわしいことである」。


写真5 一茶筆「一盛一衰」 俳友柳荘が没し、子が継いで今井磯右衛門になって代官となり、威勢がよかったが、失脚してしまったことを記す
(『今井家文書』県立歴史館蔵)

 大勧進代官がきわめて威勢のある職だったこと、しかも一朝にして免職になるもろい地位だったこともわかる。八代目今井磯右衛門は領民の推薦運動もあって代官をついだ。天保四年(一八三三)から同九年までつづく天保飢饉(ききん)にさいし、食糧移入に苦心し、領民の評判もよかった。ところが天保九年、新任の大勧進住職により解任されてしまった。善光寺町小前惣代らの松代藩への嘆願状によると、昔寺役人をつとめた家筋の矢島吾左衛門(長野村庄屋)・山崎玄忠(藤兵衛の子孫)らが、大勧進住職をそそのかして今井を追放し、自分たちがとってかわろうとしたのだったという。また、新任住職が磯右衛門の評判のいいのをねたんでやめさせたのだともいう。磯右衛門は、退役隠居して菊翁と称したが、不謹慎であるという理由で、寺領から追放されてしまった。手代中野治兵衛(五代目)も、慶応二年(一八六六)年貢の一部を着服したとして永蟄居(えいちっきょ)を命じられた。明治二年(一八六九)現在、元代官今井菊翁、元代官上田謙斎、元地方(じかた)役人中野治兵衛がいずれも処罰されたままだった。家老久保田家も二代内記のとき、出開帳(でがいちょう)失敗の責任を着せられて嗣子(しし)とともに追放され、大勧進の近侍が内記の娘と結婚して家をついだ。

 善光寺役人は、実務は多く地位は不安定であった。文化十一年、箱清水村は善光寺に嘆願書を出して年貢の減免を訴えた。その願書のなかに、「当村の免(税率)は中野治兵衛様が地方役人になってから高くなり、同家三代のあいだに惣百姓が衰微した」とのべている。この願書に付属する免状控えが現存するが、それを点検すると、中野をおとしいれようと故意に文書を書きかえたあとがある。直接徴税を担当している役人を攻撃することによって、減税の成果をかちとろうとしているわけである。安政六年(一八五九)に、平柴村(安茂里)が提出した訴状にも「中野様から何度も無心金を申しこまれ、お断わりしても聞きいれられず、御用立てした。今回も山見(やまみ)をとおして借金を申しこまれ、迷惑している」とある。役柄を利用して百姓に借金を申しこむなどのこともあったらしい。

 大本願の主な役人家は吉田・柄沢・吉村・山極などであった。嘉永三年(一八五〇)当時、代官は吉田兵右衛門で江戸にいた。手代は山極豊吉だった。嘉永二年、吉村隼人(はやと)が手代見習役についたとき、八町庄屋らが反対して吉村の就任は実現せず、山極が手代になった。同六年、山極が辞任して隼人の子五十治郎(いそじろう)が手代になった。しかし、翌年、五十治郎父子は大本願から追放された。隼人は素月庵木鵞(あんもくが)と号する俳人で「きせ綿」の編著がある。