寺役人制度の崩壊

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寺役人(寺侍)の制度は、明治四年二月、善光寺領が中野県に編入されるとともに、形式的には廃絶した。大勧進家来今井磯右衛門・上田丹下・秋野一郎・馬島左文・岩下多門・久保田周三・中野欽二郎、大本願家来柄沢彦三・山極慎吾・清水信夫・徳武源吉は、いままで免税になっていた屋敷高につき来年から年貢を納入すると出願した。四月、大勧進家来譜代今井ら六人、抱馬島ら五人、大本願家来八人の「家来元給録」などが中野県に報告された。

 善光寺領はなくなっても、大勧進・大本願はそのまま寺として存続したので、今井家は明治中期まで、久保田家は大正年間まで大勧進事務員としてつとめていた。同心だった徳間氏の子孫は昭和三十三年までつとめていた。上杉伯爵が大勧進へきて徳間氏にあい、「私の家来にも徳間がありますよ」と語ったという。徳間氏は徳間(若槻)の地士で葛山衆(かつらやましゅう)の一員だった。一家は上杉氏に属して米沢に移り、一家は善光寺町に住んで大勧進へ仕えたのであろう。現在の大勧進・大本願には近世寺役人の系譜につながる人はいない。