善光寺の町屋敷には、きまった役がついていた。役を大きく分けると、寺への役と伝馬(てんま)役とがあった。大門町は北国往還善光寺宿だから、伝馬役を負担しなければならず、隣接の西町・横町なども伝馬関係の歩行(かち)役などを負担する。寺への役は鍛冶役・紺屋役など職業的なものと、被官・刀被官・小被官など、寺のために労務を負担する役とがあった。
被官を刀被官・小被官と区別して大被官ということがある。大被官は両寺にことあるときは、帯刀で出頭して寺役人の補助をするもので、財産のあるものはその屋敷を買って大被官になりたがったという(『長野市史』)。
文政十三年(一八三〇)、権堂村で出作組(善光寺寺町の住民で権堂に土地をもっている人びと)と権堂村との争いがあったとき、権堂村では「出作組頭藤沢長治郎は善光寺被官と号し、苗字(みょうじ)・帯刀が許可されていて権威をふるって困る」と中野代官所へ訴えている。
寛永十六年(一六三九)に、下大門町が代官高橋円喜の横暴を訴えた訴状に、「門前の家が退転して四〇〇軒ほどしかないのに、その大部分を御被官になされ、伝馬役をつとめるものが少ししかありません」とある。
元禄五年(一六九二)には、境内の露天商人から税を取りたてるために「大被官二人、両寺山見(やまみ)・中間(ちゅうげん)・小被官」が出ているから、大被官が寺役人の仕事をしていることがわかる。
元禄三年、大門町と東之門町など四町のあいだに市場についての紛争がおこり、東之門町に住む大被官弥五助・伝三郎の両人は、訴訟文書に加印するよう求められ「自分たちは大被官だから町内一列に加判はできぬ」と拒否したところ、村八分の処分をうけてしまった。大被官が役人と町人と二つの身分をもっていたことがわかる。