大被官の家筋

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大被官は、大勧進・大本願とも原則として一〇人だった。例として大勧進大被官を三年分だけあげる。大本願大被官については古い史料がないので幕末の二年にした。

 大勧進被官は、元禄十五年に高橋長右衛門・水品次右衛門・江守安左衛門・笠原十兵衛・伝田伝三郎(同権之丞と二人でつとめる)・池田五八郎・松沢武介・塚田五郎右衛門・水品九左衛門の九人である。正徳(しょうとく)二年(一七一二)の場合は、成田平兵衛・岩倉理右衛門・笠原次郎兵衛・高嶋喜右衛門・水品半右衛門・池田惣兵衛・玉木源左衛門・伝田喜平次・水品弥市・水品武助・伝田弥五郎(写真6)の一一人である。


写真6 寺役人と被官 正徳2年(1712)大勧進日記。この年、被官は一人ずつ大勧進玄関で年賀客の受付をした

 嘉永四年(一八五一)は、藤沢長治郎・林数右衛門(さぎ屋)・七沢清輔(せいすけ)・笠原時三郎(十兵衛)・戸谷孫右衛門(つち屋)・早川啓介(吉野屋)・小林兵十郎・小坂又五郎・岩下源作(蔦屋(つたや))・滝沢十郎右衛門(括弧内は『小野日記』により補入)の一〇人である。

 いっぽう大本願被官は、嘉永三年に岡村太郎治(大門山屋)・坂口市之丞(同江戸屋)・宮川仙八(阿弥陀院町山本)・早川和輔(桜小路吉野屋)・塚田平八(阿弥陀院町ふじ屋)・青沼喜八(西横町喜多屋)・矢島甚兵衛(岩石町)の七人であるが、弘化大地震後は一時減少した。元治(げんじ)元年(一八六四)には、中沢吉右衛門・西条市兵衛・岡村市郎治・青沼喜八・塚田平八・山本権七・矢島市郎兵衛・松田文治郎・北沢平兵衛の九人であった。

 大勧進被官は、元禄十五年と正徳二年のわずか一一年のあいだに同姓名の人は一人もなく、姓も五人がかわっている。

 元禄十五年と正徳二年の両方に出てくるのは笠原十兵衛家だけで、ほかは全部入れかわっているから、大被官はかならずしも世襲ではなかったことがよくわかる。世襲名の家では、一七代笠原十兵衛は平成十一年(一九九九)まで長野市議会議員をつとめ、先代も長く市会議長をつとめた。目薬屋としても有名である。水品氏は二家あり、このあとも町年寄などをつとめ、水品平右衛門は市会議長・商工会議所会頭・代議士などを歴任した。七沢清輔(助)は長野市長・長野信用金庫理事長などを歴任した。

 大本願大被官に岩石町の矢島氏のいるのも注目される。明治二十一年(一八八八)二月六日、大本願が大勧進住職を相手どって、善光寺法儀妨害訴訟を長野始審裁判所に出訴したときの大本願の代言人(弁護士)矢島浦太郎は、岩石町の矢島氏であり、長らく衆議院議員もつとめた有力政治家でもあった。この出訴につき大本願は信徒惣代(そうだい)に承認を求めたが、信徒惣代は藤井伊右衛門・矢島浦太郎の両人だった。つまり矢島浦太郎は、父の代まで大本願大被官であって、そのまま信徒惣代もつとめていたわけである。浦太郎の子の武も弁護士になり、県弁護士会長、日弁連副会長などを歴任、引きつづき大本願の弁護士をつとめた。

 藤井伊右衛門家は、大本願智慶上人が都から下向したときに随行してきた家で、その屋敷は大本願と隣接しており、上人の草履取りは藤井家の子女がつとめる習慣になっていた。また大本願の老尼は、最後は藤井家で世話をすることになっていた。藤井家は、代々善光寺町屈指の有力町人であり、一四代伊右衛門は長野市長・衆議院議員をつとめた。善光寺宿本陣の藤井家も分家である。藤井家は本家が大被官の上に立つ地位にあり、寺侍の仕事をしたこともあり、分家も大被官であったことがある。

 昭和十一年(一九三六)には、市長が大本願信徒惣代藤井伊右衛門で、市会議長が大勧進信徒惣代笠原十兵衛だった。長野市ではこのように有力な旧家が先祖代々両寺のどちらかに属していて、フリーな立場をとりえないという場合があった。