町年寄

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善光寺町年寄は、寛永十六年(一六三九)または同十九年、両寺紛争のとき幕命により設けられたと伝えられるが明らかではない。延宝八年(一六八〇)には、大門町惣代の願書が町年寄・庄屋にあてられているから、このころまでには町年寄が成立していたことが明らかである。元禄十年(一六九七)、善光寺本堂再建工事が始まったとき、町年寄は工事の元締を命じられており、町役人筆頭としての地位が確立していた。「歴代善光寺町町年寄・問屋・本陣・庄屋名前書留」(『市誌』⑬二三一)によると、町年寄をつとめたものはつぎのとおりであった(在任の長かったものは重複している場合もある)。

 中沢(二九人)・藤井(二五人)・西条(一時谷と改姓)(二〇人)・水科(七人)・丸山(六人)・羽田(五人)・岡村(三人)・佐藤・岡田・岩下(各二人)・松井・戸谷(各一人)の諸家で、これらの諸家は、そのほとんどが大門町の商人であった。また、大門町庄屋・本陣・問屋と同じ家系のものが多い。中沢氏は上屋(あげや)村(芋井)の出身で、二代与左衛門以降六代まで、代々町年寄をつとめ四代は本陣を兼ねた。九代与左衛門は中牛馬(ちゅうぎゅうば)会社の設立者として著名で、大門町に残るれんが造りの建物は信濃中牛馬会社本店として建てられたものである。五代の弟与三右衛門は、分家して旅籠(はたご)扇屋(扇屋五明館)を開業し、やがて大門町庄屋となり、つぎの代に問屋を兼ねた。

 町年寄をつとめた藤井氏には二流あり、いずれも伊右衛門家の分家で、平内(平五郎)家は大門町東側の北から二軒目に住み、初代(元禄三年没)から代々町年寄を、四代からは本陣をつとめた。現在も「御本陣藤屋」として旅館をつづけており、建物は国の登録有形文化財に選定されている(図4)。茂右衛門家は東横町に住み、本家と同じ酒造業のほか、醤油(しょうゆ)・茶・紙・油・蝋燭(ろうそく)・綿・笠(かさ)などを手広くあきなった。天明六年(一七八六)、善光寺町を訪れた伊勢御師(おし)荒木田久老(ひさおゆ)は、町年寄藤井茂右衛門のために、その書斎をたたえた「二川楼記」という文を作って、その隆盛を祝している。この家は、弘化大地震で男子一人を残して全滅する大被害をうけたが、今も有力分家としてつづいている(図5)。


図4 町年寄・本陣藤井平五郎と大門町庄屋(のち問屋)扇屋金四郎こと中沢与三右衛門
(文政10年『諸国道中商人鑑』より)


図5 町年寄藤井茂右衛門家 酒・醤油・紙・油・綿など手広く商っていた。弘化4年(1847)の善光寺大地震で男子一人を残し全滅
(文政10年『諸国道中商人鑑』より)

 水品(水科)家は、戦国時代以来の旧家で綿屋平右衛門と称し、元禄のころ大勧進役人をつとめた。宝暦十一年(一七六一)、仁左衛門が大門町庄屋をつとめたのち、三代にわたり庄屋をつぎ、天保二年(一八三一)五郎右衛門が町年寄をつとめ明治初年にいたった。その子平右衛門は、市会議長・商工会議所会頭・代議士をつとめた。

 西条氏は大門町の薬種商で小升(こます)屋と称した。徳兵衛家は一時、谷九郎左衛門と称し、大勧進の御用達をつとめた。文化十年(一八一三)当時、善光寺平の薬種商は一三人で、そのうち七人が善光寺商人だったが、得意先の数の一位は西条与五兵衛、二位は徳兵衛で、あいついで町年寄をつとめている。

 羽田氏は、寛永十六年の下大門町の訴状に署名している訴人八人のうち、羽田彦右衛門だけが苗字を称しているから、浪人出身らしく、町年寄のほか大門町庄屋もつとめている。

 以上みてきたように、町年寄は大門町の富商がこれに任じられることが多く、水品氏なども本宅は岩石町だが、大門町にも店をもっていたのであろう。町年寄は原則として世襲だったが、一、二回しかこれに任じられなかった家もあり、丸山氏のように、初代以来数代町年寄をつとめたが、宝暦(一七五一~六四)ころ没落したらしく、以後いっさいの公職に名をとどめない家もある。

 町年寄の定員は三人ないし四人だった。三人を欠いたこともなく、五人以上になったこともない。町年寄は月番で勤務する。月番町年寄はその月の一日に両寺に出頭し、ついで両寺代官・手代の家をまわって、「月番中沢平作」などと書いた月番札を提出する。その月は、自宅を役場として勤務する。これを町年寄役場と称する。月番以外の町年寄も、毎月一日・十五日および三月三日・五月五日・九月九日などの節句には同役がそろって両寺および表方役人の家をまわる。

 町年寄の職務は、①領主の触(ふれ)や達(たっし)の領民への伝達。②領民の届書(とどけがき)の上達。③役所における取り調べや裁判への立ち会い。④店(たな)改め帳・家業帳・宗門帳の取り調べ。⑤質屋・古着屋などの取り締まりなどであった。

 町年寄は無給だったが、不動産の所有権移動、庄屋就任、跡目(あとめ)相続、質屋開業、民事紛争の解決、神主の官位昇進、庵主(あんじゅ)新任などのときの披露の金品などが収入になった。それらの収入は年間三、四両にすぎず、なかには返礼をともなうものもあるから、大した実収にはならず、名誉職的な色彩が強かった。嘉永五年(一八五二)十一月、病気を理由に町年寄を退職した岩下弥太夫は、同七年二月夜逃げをし、その家財は競売に付されている。

 町年寄は町民最高の地位で、家柄と財力にめぐまれた商人にとっては決して無価値なものではなかった。しかし、経済的なプラスはあまりなかった。

 明治三年(一八七〇)十一月二十六日、松代領のいわゆる午札(うまさつ)騒動の一隊が善光寺町になだれこみ、大勧進代官今井磯右衛門邸をはじめ三八軒を打ちこわしたが、町年寄宅は一軒もこの難にあわなかった。これは、幕末・明治初年における町年寄の家が、少なくとも経済的にはあまり目だつ存在ではなかったことを示している。