庄屋

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善光寺領の庄屋は町方八人、村方三人だった。ほかに横沢町庄屋は大勧進の、立町庄屋は大本願の「門前」といわれる直轄庄屋で、町方に入っておらず町年寄の支配に属していなかった。

1両御門前 ①横沢町 ②立町

2八町   ①大門町 ②後町 ③横町 ④北之門町(のちに新町・伊勢町) ⑤東町(東之門・武井) ⑥西町(阿弥陀院町・西之門・天神宮町) ⑦岩石町 ⑧桜小路(狐池・上西之門)

     (括弧内はたとえば東町庄屋が東之門町庄屋を兼ねることを示す)

3三ヵ村  ①平柴村 ②七瀬村 ③箱清水村

 庄屋は、はじめ呼び方が統一されておらず、「庄屋」「名主」「肝煎(きもいり)」が混用されていたが、宝永以降から、庄屋に統一されるようになった。長野村・箱清水村・北之門町の三庄屋だけが免税地をあたえられており、その理由は、この三人が最初の庄屋だったからだと説明されている。

 このうち、長野村庄屋矢島吾左衛門は、特別な待遇をうけていた。他の町村では庄屋は世襲ではなかったが、長野村庄屋だけは矢島家の世襲で、他家のものが実質的に庄屋をつとめても庄屋代と称し、やがて矢島吾左衛門が庄屋をつぐことになっていた。この家は、会津浪人で大勧進へ侍奉公をし、身持ちがよかったので長野村庄屋を命じられ長野村のうち三石を役料としてあたえられた(『善光寺古日記写』)。この家は、諏訪上社権祝(ごんのほうり)矢島氏の一族で、矢島権祝家の分家七郎右衛門が保科家に仕え、善光寺の矢島家はその分かれらしい。

 いったい、善光寺は諏訪と関係が深く、古代に諏訪社の祠官(しかん)と水内郡司(ぐんじ)はともに金刺(かなさし)氏であり、一〇世紀はじめの『延喜式(えんぎしき)』に「名神(みょうじん)大社健御名方富尊彦神別(たけみなかたとみのみことひこかみわけ)神社」と記されている有力な諏訪別宮は善光寺と同じ敷地にあったらしい。中衆も諏訪出身という説もあり、善光寺神主も近世には金刺と称していた(鮎沢三千穂「中衆十五坊-長野村庄屋矢島氏から諏訪上社権祝矢島氏宛書状」)。

 長野村は、はじめ善光寺町全部をさしたらしいが、村のなかに多くの町ができたので、最後は村として残った狐池だけを長野村ということもあり、矢島家は長野村庄屋と桜小路庄屋を兼ねていた。

 箱清水村の庄屋は主に金井重左衛門だった。「重左衛門」という名も、庄屋に任命されたときに「重左衛門と称するように」と役所で命じられたから、庄屋世襲が公認されていたようなものだった。庄屋が二人のこともあった。安永四年(一七七五)、村民が庄屋を訴える事件があり、金井家の持高も少なくなってきて、他の有力な家が交代で庄屋をつとめるようになった。他の町では同じ家が庄屋をつとめた例はない。