善光寺領の組頭は、五人組頭のことだった。箱清水村組頭は四人、同村の軒数は正徳(しょうとく)三年(一七一三)まで二〇軒前後だから、だいたい五軒に一人である。享和(きょうわ)三年(一八〇三)には、村の軒数は五七軒と急に軒数が増えているが、これは小百姓の独立のためで人口が急増したわけではない。嘉永四年(一八五一)当時、組頭の数は大門町四人、後町四人、伊勢町四人などだった。寺役人からの伝達事項は、町年寄-庄屋-組頭-領民の順で文書で伝達される。たとえば「社倉積み入れ金を来たる十五日までに納入せよ」という寺役人の命令はつぎのように伝達された。
(町年寄月番から大門町庄屋へ)
当卯(天保十四年)社倉積入金納、来たる十五日迄に相違なく皆納これ有り候様御達し成らるべく候、尤も直(値)段三十二俵。
一月三日 水科五郎左衛門
(庄屋から組頭へ)
右の通り候間、来たる十四日迄に組頭取り集め、御差出し成らるべく候、以上、
一月四日 庄屋 (中沢)与三右衛門
(組頭から組員へ)
右の通り役元より申し来たり候間、左様御承知成らるべく候、
一月七日 組頭 紋右衛門
これは大門町の小野小太郎の日記の抄出だが、命令の伝達コースがよくわかる。善光寺領には、百姓代または松代領の長百姓にあたる村役人はいなかった。百姓代は、一般に百姓の代表として村政に加わるものといわれるが、善光寺領では領民が直接寺に支配されるという形が強く、百姓代にあたる役が成立しなかったらしい。