町々の盛衰

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善光寺町は長野村内にあって、それが八町と両御門前とに分かれる。八町というのは、庄屋のいる町が八つあるという意味である。八町と枝町はすでにのべたとおりである。

 御門前というのは、善光寺の直接の家来の町という意味で、横沢町は大勧進に、立町は大本願に付属している。この二つの町は、いろいろの意味で八町とはたいへん性質がちがっていて、いわば善光寺境内の町というような性質をもっていた(もちろん境内ではなく、離れているのだが)。それで、この二つの町の人びとは御門前といって誇りをもっていた。祇園(ぎおん)祭などにも参加せず、善光寺町が訴訟をおこすようなときも仲間に入らなかった。しかし、やはり町つづきになっているわけだから、善光寺町の町の数は本当は一六あったわけである。この一六の町の人びとは、いちばん多いときで八〇〇〇人ぐらいだった(表1)。


表1 善光寺町の人口

 人口の順は明和元年(一七六四)現在、横沢町・東町・西町・大門町・桜小路が上位五町であった。大門町は善光寺宿でもあり、西町・東町はそれに平行する町で商業がさかんだった。桜小路(桜枝町)は山中(さんちゅう)村々で生産される紙・麻商が多く、中世以来、栄えている町だった。

 これらの町々は、昭和三十年(一九五五)ころまでは町勢を保っていたが、その後、急激に衰退して現在は近世の五分の一から四分の一くらいの人口になってしまっている。