石川光吉と森忠政の検地

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北信濃は、慶長三年(一五九八)上杉氏転封ののち、長野村近辺は豊臣氏直轄領となり、豊臣氏の奉行石川備前守光吉(いしこびぜんのかみみつよし)によって検地がおこなわれた。慶長七年(一六〇二)の水内郡岩草村(七二会)検地帳に「備前時長(帳)はつれ」と書きこみがあり、これは「石川備前のときの検地に漏れた地」という意味である(『信史』⑲四〇七頁)。善光寺大勧進役人円喜らは、領民の幕府への訴訟の返答書のなかで「善光寺領は石古(いしこ)備前殿の御縄のままです」(『信史』27四六五頁)と申したてている。石川は「いしこ」と読んだらしく、石川光吉は石古備前とも書かれることがあった。

 慶長六年、善光寺にあたえられた一〇〇〇石の寺領は、この石川光吉の検地によって定められたものだった。慶長七年を中心に、森忠政の検地がいっせいにおこなわれ、隣村の水内郡権堂村(鶴賀権堂町)は、慶長七年八月に検地をうけたが、善光寺領はもう朱印地になったあとだったから、森検地はおこなわれなかった。森検地で、水内郡では四〇パーセントも石高が増えた。しかし、権堂村の森検地も他の諸村ほどは厳密におこなわれなかったらしい。同郡幕府領権堂、問御所(鶴賀問御所町)、荒木・千田・栗田(芹田)の五ヵ村は、村高はきまっているが、無反別で、稲四〇束刈を一反歩ときめて反別を示したという(『地方凡例録(じかたはんれいろく)』)。中世末、善光寺の支配者だった栗田氏の根拠地栗田などは、じっさいの検地をうけなかったらしい。その後、箱清水村では寛永十八年(一六四一)に名寄(なよせ)帳が作製されているが、他の町村の分は知られていない。