県庁敷地からみた石川検地と森検地の違い

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北信濃の石高は、慶長七年の森忠政の検地によって、約一四万石から一九万石余と五万石も増加した。水内郡も五万一〇〇〇石が七万一〇〇〇石へと二万石増加した。善光寺領は森検地をうけていないから、松代領などとくらべて石盛(こくもり)が低いはずである。

 明治五年(一八七二)、長野御殿と腰村(西長野)袖(そで)長野にまたがる地が県庁用地として買収された。この地は、大勧進末菩提院(ぼだいいん)のあった地で、善光寺領と松代領にまたがっていた。御殿は海津城主松平忠輝の屋敷跡といわれている。表2は買いあげられた土地の長野村分と旧松代領腰村分の数値である。善光寺領も松代領も石高だけで反畝歩の単位はついていないのがふつうだから、これは買い上げについて新しく測量した数値である。長野村のほうが面積は倍以上あるのに、石高はかえって少ない。一反についての石高をみると、腰村分は一石二斗で上畑並みの石高だが、長野村は四斗七升にすぎない。租米は近世末期のものに準じており、一反についての租米は、善光寺領は松代領の約六割だった。

 森検地の結果、北信濃の石高が四割も上昇した結果がこういうところにも残っており、善光寺領の貢租はそれだけ安かったらしい。


表2 県庁敷地の貢租
明治5年(1872)