村名寄帳

266 ~ 270

寺領三ヵ村のうち、箱清水と平柴両村の「名寄帳」が残っている。「箱清水村名寄帳」(『県史』⑦四四五)の最後の部分を抄出するとつぎのとおりである(数字の表記等を改める)。

  一高一石五斗四升九合内田三十かり質入 畠二丁鋤  重左衛門分長左衛門印

   外に一丁鋤売申候、籾高二斗の所 但し正知(智)坊入

    人数五人  上下なし

    家二間はり・長五間

  一高六斗三升二合 内畠二丁鋤出作分  太左衛門印

    人数六人  上下なし

    家二間ま中はり・長六間

  一高二石一斗六升九合         彦右衛門分

  一高八石一斗六升八合         長右衛門

  一高二十石一斗八升七合内田六百五十刈 畠八丁鋤  名主重左衛門

   此内五斗一升三合 堤ノ引

    内籾三石六斗七升八合売り申し候、

   高一斗二升 出作分この田二十刈   同断同人

    人数十人  上五人 下五人

    馬         一疋

    家三間はり・長九間 付り二間はり・五間蔵一ツ

  一高十七石七斗八合   北ノ門町名主 権右衛門

  一米高合百五十二石一斗一升一合    居村高辻

    内七石九升五合   堤ノ引居村(人名略)

    同一石三斗八升八合  下ノ寺入(人名略)

  小以八石四斗八升三合  引かた

  引残て百四十三石六斗二升八合    有高


 さて、抄出部分の最初に記されている「重左衛門分 長左衛門」は、箱清水村名主(庄屋)金井重左衛門家の分家である。「重左衛門分」と記された百姓はこの前にもう二人いる。長左衛門の畠の一部は寺内の中衆の正智坊の手に渡っている。つぎの太左衛門は持高のいちばん少ない百姓である。家は一〇坪と一二坪である。つぎの二人は高だけで家や人数が記されていないから、他村の人で土地だけの所持者である。重左衛門は持高も村内最高の二〇石余、家も二七坪とわりに広い。一〇坪の土蔵ももっている。つぎの北ノ門町名主権右衛門(上原)は持高は重左衛門につぐ。北ノ門町は善光寺境内の北に接しているが、たぶん近世に入って成立した町で場所は箱清水村に属していた。この地はのちに境内になり北之門町は移転して新町になる。一茶の弟子の上原文路(ぶんろ)はその権右衛門の子孫である(写真7)。


写真7 町並改帳は持主を確認するため何度も作製された。図は文政9年(1826)新町軒並改帳(部分)
 上原権右衛門の屋敷。面積約110坪。この家に俳人一茶が文化11年、75日間滞在し、代官今井磯右衛門の免職を聞いて文を作った

 人数のうち「下」というのは召使で、総計では上(家族)一〇〇人、下一七人、馬一〇匹である。住宅は名主の二七坪が最高で、一八坪一軒、一四坪四軒、一二坪五軒、一〇坪三軒(不明二軒)で、小さな家が大部分である。名主に次ぐ一八坪の家に住む与右衛門は善左衛門の弟らしい。善左衛門と本高一五石六斗をほぼ折半して所持しており、均分相続したらしい。なお、重左衛門家は享保(きょうほう)元年(一七一六)には三九坪、天保年間(一八三〇~四四)には六〇坪(一二間×五間)とだんだん大きくなっている。他の家も少しずつ大きくなったのだろう。なお、持高はしだいに細分化し、享和三年(一八〇三)には家数が五七軒になる。

 つぎにあげるのは、天和三年(一六八三)九月に提出された「平柴村名寄帳」(『県史』⑦四四四)の最初の部分である。

  一高二石八斗五升            平紫村 久右衛門印

    人数四人妻子

    家二間はり・五間  一つ

   右の高の内一石四斗二升五合ハ     支配  七之丞印

    人数五人妻子

    家二間はり・五間  一つ

  一高八石六斗三升三合              伊左衛門印

    人数四人妻子

    家二間はり・五間  一つ

   右の高の内四石三斗一升六合五夕は   支配  徳之丞印

     是ハ上人様に差上げ申候、


 この「名寄帳」には二七軒が記され、うち六軒は他村からの出作で、平柴の住民は二一軒である。久右衛門の持高二石八斗五升のうち半分の一石四斗二升五合は、弟らしい七之丞の支配、伊左衛門の持高八石六斗三升三合のうち、半分の四石三斗一升六合五勺は、これも弟らしい徳之丞の支配である。家は四人とも、二間・五間の一〇坪である。この村には、このように土地を正確に半々に分けている六例があり、一二軒で過半におよぶ。

 平柴村が善光寺領になったのは正保(しょうほう)二年(一六四五)で、このとき分村して平野部は小柴見村として松代領に残り、朝日山(旭山)の中腹だけが善光寺領となった。平柴は南北朝時代には守護所が置かれた重要な地であるが、川中島の戦では旭山城に武田軍や善光寺別当栗田氏がこもり、または上杉謙信の本陣になるなど、このあたりが戦場になり、亡村になったらしく、善光寺領になって、平柴の台上に一〇軒ほどが入植して新しく村をつくったらしい。二代目になって、そのうち六軒が二子に均等に分割したのであろう。北信濃では均分相続が広くおこなわれており、一茶の父が、財産を折半して一茶と弟とにあたえたのもその例である。一〇坪(二間・五間)の家がもっとも多く、約半分を占め、ただ「四間」と記してあるのは「二間・四間」のことらしく四軒ある。最大の二二・五坪(二間半・九間)の家に住み、下人四人を抱えている市平は、持高五石八斗二升六合でその半分を弟にあたえている。同じく最大の家に住み、下人五人を抱えている助右衛門は、持高が籾五俵一斗にすぎないし、やはり最大の家にすみ、家族一〇人の九兵衛も持高三石一斗四升七合にすぎない。これらの人びとはたぶん隣村小柴見村などに土地をもっていたのだろう。平柴・小柴見の人が中御所村などに土地をもつことは最近までごくふつうのことであった。