善光寺領の耕地では、すべて「苅(かり)」と「鋤(すき)」の単位を用い、町・反・畝・歩の単位を使用しない。これはじつは善光寺領だけでなく、川中島地方に広く残る習慣で公的には町反畝歩の単位があっても、耕地の売買などでは「苅」の単位を使うのがふつうで、『地方凡例録(じかたはんれいろく)』などでも注目されているところである。越後方面でも同様である。文化五年(一八〇八)に俳人小林一茶が弟と父の遺産を折半した「取極(とりきめ)一札之事」にも、田は「苅」で、畑は「丁鋤」で記されている。
川中島地方では、私的称呼として「刈」が現在でもかなり使用されている。「刈」は「束刈」と同義で、「一束を十寄せて十束刈と唱う」(文化元年「権堂村明細帳」)といわれる。「十刈」とは、もともと「刈って稲十束を得る田」という意味で、古く律令制において使用された単位で、一束は籾(もみ)四升(米二升)にあたる。一反から稲五〇束を得るのが標準だったから反収一石である。『地方凡例録』の「百刈反別の事」についての説明によると、幕府領権堂・問御所・荒木・千田・栗田の五ヵ村は、往古から高はあるが無反別で、稲四〇束刈を一反ときめて反別を積もる。一反四〇束として計算すると、石盛(こくもり)平均一石二斗余になるという。文化元年(一八〇四)の「権堂村明細帳」では、「百刈の御高二石五、六斗より三石二、三斗位」と説明している。一反あたりでは一石から一石四斗くらいであるから、平均するとやはり一石二斗余ということになる。
箱清水村の田の「苅」を明治八年(一八七五)の地券野帳とくらべてみると、一刈は平均一二坪くらい(一四坪から一一坪までのあいだ)にあたる。四〇刈を一反とすれば、その一反は四八〇坪ほどあり、じっさいは一反六畝にあたる。つまり善光寺領や周辺五ヵ村の石盛はじっさいよりもずっと低く見積もってあるらしい。