居村分と出作分

271 ~ 272

善光寺領の耕地には居村分と出作分と二種類の土地があった。七瀬村では、正徳(しょうとく)三年(一七一三)居村分の税率は二割六分、出作分は六割五分だった。箱清水村では、元和(げんな)六年(一六二〇)に、居村分が三割五分、出作分は六割五分で、出作分の税率はほぼ居村分の倍になっていた。

 これは近世初期、箱清水村民の所持する地を居村分とし、村民以外のものの所持する地を出作分とし、それが固定してしまったらしい。百姓は寺にたいし一定の労役を負担するから、持地の税率は低くなり、出作分の所持地を所持するものは労役を負担しないから、税率が高いのだろうと考えられる。したがって、居村分は名田(みょうでん)で、その所持者は名主(みょうしゅ)だったらしい。居村分の土地を村外のものに売ると耕作権(作職(さくしき))だけが移って、名主職(みょうしゅしき)はそのまま百姓のもとに残っていた。寺は買主に出作分の税率を課し、出作分から居村分の税を引いた分はもとの持主へ返付(年貢から差し引き)していた。

  高一石(収穫 籾二石) 居村分  税率三割五分  年貢籾七斗

              出作分  税率六割五分  年貢籾一石三斗

 居村分の土地が町民などに売られると、一石につき寺の取り分は六斗増えるが、高はそのままもとの持主に残っており、籾六斗は持主の年貢から差し引かれる。

 寛永十八年(一六四一)の「箱清水村名寄帳」には、名に肩書(分付(ぶんづけ))のついているものが多数ある。居住地・職業を示すものもあるが、

     喜兵衛分堂照坊

     半助分拾左衛門

のような記載がある。堂照坊は中衆の筆頭、拾(重)左衛門は箱清水村庄屋である。「分付」は検地帳ではふつう「分」のついているほうが主人・隷農主であることが多いが、この場合はあきらかに堂照坊・拾左衛門のほうが主人・隷農主である。これはたとえば喜兵衛の所持地(居村分)を堂照坊が買い、高は喜兵衛方に残っていることを示すものであろう。