年貢割付状と皆済目録

274 ~ 276

善光寺領の年貢割付状(免状)と皆済目録はきわめて簡明なもので、書式は近世初期から幕末までほとんど変化がない。

 文化五年(一八〇八)の箱清水村の免定と皆済目録はつぎのとおりである。

   免定の事

 一居村分  取三ッ四分 定

 一出作分  取六ッ五分 定

 右の通り辰免定件(くだん)の如し、

  文化五戊辰(つちのえたつ)年十二月    柄(柄沢)彦太夫(大本願代官)印

                      今(今井)磯右衛門(大勧進代官)印


                        箱清水村 庄屋

                             惣百姓


   納箱清水村御年貢籾の事(皆済目録)

 一籾百七十三俵三斗五升二合       居村分

 一籾五俵三斗二合            切発(きりおこし)分

 一籾二俵一斗九升二合          御種貸利籾

 小以百八十一俵三斗七升六合

 右の通り当辰御年貢籾皆済せしむる者也、

  文化五戊辰年十二月          今磯右衛門


                        箱清水村 庄屋

                             組頭

                             長百姓

 年貢割付状は文字どおり「免定」つまり税率がきめてあるだけである。箱清水村の居村免は、元和六年(一六二〇)二ッ九分(二割九分)、寛永三年(一六二六)三ッ二分、寛文(かんぶん)元年(一六六一)の四ッ二分を最高とし、以後しだいに下がって、延宝二年(一六七四)から元禄期までは、おおむね二ッ五分ないし二ッ九分で三割に上がったことはない。宝暦元年(一七五一)に三ッに上がり、しばらく三ッから三ッ四分くらいのあいだを前後したのち、延享(えんきょう)元年(一七四四)に三ッ四分になってから、ついに幕末までこれが定免同様のきまった税率となってしまっている。皆済目録が居村分と切発分のみについて発せられ、出作分のことをのせていないのは、当村が村としては出作分の貢租につき責任をもたないことをはっきり示している。出作分は事実上寺の直轄だからである。また、免定には大本願代官が連署しているが、それ以後の仕事は大勧進代官がおこなうことも、はっきり示されている。

 善光寺領では皆済目録は村あてに発行されるほか、寺役人から個々の百姓あてに発行される。松代藩では、個人あて皆済目録は村役人(ふつう名主)から個人へ発行されるが、善光寺領では寺役人から直接個人に発給される。これは、善光寺領では村が自治村として独立していないで、百姓が寺の隷属民になっていることのあらわれらしい。

 庄屋金井重左衛門は、元禄十五年(一七〇二)当時高二〇石余を所持しており、免税地五斗余(堤引)を引き、税率二割五分、これに出作分一斗二升を加え、納籾は約一〇石二斗である。このうち約八石七斗は、「庄屋給(籾二石)、検見引、出作より済(すまし)」で、けっきょく納籾は一石四斗九升一合、納税率は九パーセントにすぎない。「出作済」は居村分を売った分で、これは出作の税率をかけるから、その一部が給付されるものである。金井家は享保期以後、家運が下り坂になり、約半分くらいの年は年貢がマイナスになって寺から籾を支給されている。居村・出作の制度が譜代百姓の没落を防ぐ役割をしていることがわかる。