伝馬役と歩行役など

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善光寺町は北国街道の宿場であったので伝馬役を負担した。常備は馬二五匹・人足二五人だったが、じっさいはもっと多くの人馬を必要とした。大門町は一軒を除いてあと全戸が伝馬役で、享保六年(一七二一)当時は馬三〇匹を負担した。ほか横町八匹、西町二匹で計四〇匹であったが、自分で馬を出すものは少なく、役代を頼んでかわってもらった。歩行(かち)役は西町・西之門町・阿弥陀院町・後町・東之門町・伊勢町の各町でつとめたが、これも自分で人足に出る人は少なく、役代金を納めるようになった。歩行役の役代金は天明(一七八一~八九)ころ、金二分と銭五〇〇文から金三分と銭五〇〇文に上がり、天保七、八年(一八三六、三七)ころから一両以上になった。小被官役・鍛冶役はだいたい年に金一分だったから、歩行役をつとめる町々は安政三年(一八五六)、宿問屋・本陣らを相手に訴訟をおこし、文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)、大門町から一五〇両を歩行役の町々へ渡すということで和解した。

 伝馬役以外の屋敷には寺の役がついていた。寺の役には被官的なものと職業的なものとがあった。被官の筆頭は大被官だが、これは名誉職で苗字・帯刀を許されるので、大被官役の家は高く売れたという。刀被官は刀をさして出頭する夫役、小被官は雑用、男女役は勝手向きの人足だが、みな代金納になっていた。職業的な役も、はじめはじっさいにその職業の役をつとめていたが、だんだん代金納になった。享保元年(一七一六)東町佐藤宗叔は鍛冶役屋敷に住んでいたので、鍛冶頭に頼んで役代金を納めていた。ところが、同町内に鍛冶屋で歩行役半軒ずつつとめるものが二人あったので、その歩行役一軒と自分の鍛冶屋役一軒前とを交換してもらった。

 屋敷についている役のほか、種々の役があった。荷駄切(にだぎり)は、寺の命により朝日山から薪を切りだすことで、毎年三日間おこなわれた。御開帳人足は出開帳のお供で、文政三年(一八二〇)の江戸開帳では五〇人が割りあてられている(『市誌』⑬四四四)。これは八町三ヵ村へ割りあてられたものだが、大門町は五人全部が他町の人を雇って出している。村の場合は二人ずつであった(図7)。


図7 善光寺領の諸役