寺領の統治についての審議や伝達などは、大勧進代官今井磯右衛門の邸内で開かれた。これを「役所を立てる」といった。今井磯右衛門は、二代が宝永年間(一七〇四~一一)に代官になってから、幕末まで九代にわたり、ごく短期間を除いて代官の地位にあった。
写真8 大勧進代官今井家の屋敷 今井家は寺侍(てらざむらい)の筆頭 本屋は間口13間半(1間は約1.8m)、奥行8間の切妻造りで、正面には間口2間の大きな玄関がついている。玄関の屋根には、今井家の井桁(いげた)の紋がついている。政庁を兼ねており、この玄関の右(東がわ)は塀(へい)に囲まれた中庭でここは江戸時代には白洲(しらす)で、裁判がおこなわれた。この建物は明治2年の建築 (『信濃毎日新聞社『善光寺』による)
天保(てんぽう)七年(一八三六)には、元旦から十月十五日までに二九回役所が立てられている。五月五回、六月四回、七月六回で、このあたりが多い。十月下旬から十二月までは判明しないが、年間三十数回ほど立てられたらしい。役所は必要に応じて開かれるが、正月に庄屋などを集めて開く大事な寄合を初寄合といい、正月二十三日に開かれることにきまっていた。嘉永五年(一八五二)正月二十三日に開かれた初寄合には、大勧進代官今井・手代中野・大本願代官山極と町年寄二人が出席した。「役所」は、このほか正月二十日・同晦日(みそか)・二月六日に開かれ、いずれも町年寄は二人ずつ出席している。
天保七年正月二十一日には、今井磯右衛門が「明後二十三日は例年のとおり初役所だから、四ッ時(午前一〇時ごろ)に出席されたい」と使いで連絡する。連絡先は大勧進手代中野・大本願代官山極・町年寄・地割方・大門町役人・御被官月番・棟梁(とうりょう)である。八町三ヵ村庄屋は町年寄の指揮下だから、町年寄から連絡する。集まったところで庄屋・宿役人へ御条目を申しわたす。これは幕府の「五人組帳前書」の抜粋に善光寺領独特の条文を加えたもので、享保十八年(一七三三)には九ヵ条であったが、弘化二年(一八四五)には一七ヵ条に増えている。必要に応じて増やしていったものらしい。申しわたしたあとで八町三ヵ村庄屋連署の「証文之事」という請書(うけしょ)をとる。この文書は大切にされ、毎年の分が現存している。行事が終わると参列者へ酒肴があたえられ宴会になる。小領地らしく、行事もなごやかにスムーズに終了する。