代官・町年寄の一年と役所の仕事

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天保七年(一八三六)の善光寺代官今井磯右衛門の日記(『長野』四七号)によって、代官の一年をみていくことにする。代官は寺役人の筆頭で、大勧進・大本願におのおの一人ずついた。大勧進では主に今井磯右衛門家の世襲で、大本願代官はこのときは山極源右衛門であった。大勧進の次席寺役人は手代(地方(じかた)役)の中野治兵衛であった。代官は、年貢の徴収、宗門帳管理、領内取り締まり、裁判および処罰、外交などあらゆることをおこなったが、この日記は、それらの仕事をきわめて具体的に記している。

 また、幕末の町年寄西条徳兵衛は「町年寄役年中行事并(ならびに)役用温古録」(『日本都市生活史料集成』⑨門前町篇)という記録を残し、一年をとおしての町年寄の仕事を丹念に記録した。代官の仕事に町年寄の仕事を重ねあわせてみると、善光寺領の政治のしかたがよくわかる。そこで、この二種の記録を併記して考察していく。

正月

 元旦、子の刻(ねのこく)(午前零時)にお堂へいく。卯(う)半刻(午前七時ころ)年頭のあいさつに登院といって大勧進へ出頭し、別当にお目にかかり、ついで大本願へあいさつにいき、大本願役人山極・唐沢の両人宅へ年礼にいく。三日は例年のように町方へ年礼に出る。中野治兵衛病気につき、その嗣子(しし)仙之助を同道する。なお、治兵衛は翌年退職し、仙之助が治兵衛になる。町年寄は麻上下(かみしも)で供一人をつれ、大勧進(お目見え)・御用部屋・大本願・三寺中・寺役人・医師・被官宅などをまわる。各所に銭三文ずつの礼銭を置いてくる。

 八日には松代へ年頭のあいさつに出頭、家老・中老・職奉行・道橋奉行をまわる。例年は九日なのだが、今年は拝借金の用があるので、一日早くまかりでたわけである。代官といってもなかなか腰は低く、まめにあちこちをまわっている。前日から出かけ松代町宿(まちやど)に泊まる。町年寄年番も同行するが、宿舎は別である。

 十日から十二日夕方まで一夜三日、市神祭である。松代藩の産物会所設置、善光寺町への穀留めに反対して寺領がわが天保五年に訴訟をおこしたが、市場一件が解決したので、平年よりにぎやかにやるよう、七日に町年寄をとおして町々へ触れた。代官からも高張一対(たかはりいっつい)を献備する。

 十一日には大勧進御蔵開き、社倉(しゃそう)(非常用貯穀倉)も蔵開き。十九日「いままで中野と二人で祠堂金(しどうきん)(大勧進の基金)の貸出係を命じられていたが、町方事務が多く、ことに今年は改券の年だからとてもやっていけない。いままでは借用証文が私どもの宛名になっていたが、これをやめにして、だれか別の人に命じていただきたい」と願いでるが、これはけっきょく認められない。二十一日に、市場一件につき、上野寛永寺の宮様から松代江戸屋敷へ使僧を遣わされるという連絡が入る。松代藩が寺領民の要求をいれて善光寺町を差別しないことにしたお礼であろう。

 二十一日には、今井代官から町年寄へ明後二十三日、初寄合があると連絡する。町年寄はすぐに八町庄屋・宿役人・三ヵ村庄屋などへそれぞれ回覧状で連絡する。

 二十三日、町年寄が初寄合に巳の刻(午前一〇時ころ)役所へ出頭、今井・中野・柄沢・山極の両寺役人四人、町年寄四人、物書役、手付同心四人が出席し、役人から町々村々庄屋へ御条目を読みきかせ請印をとる。ついで、宿役人へ申しわたす。右の申し渡しが終わり、町年寄から下村の頭などにつぎのことを申しわたす。「御領内に不審なものが見あたったら捕らえて届けでること。野辺で乞食などが小屋懸けをしていたら早速追い払うこと」。終わって雑煮(ぞうに)吸物・鉢(はち)(数の子)・鉢(人参・ほたわら)・重(じゅう)(いも・れんこん・するめ・椎茸(しいたけ)・こんにゃく)の料理で酒が出る。

 二十六日にはまた役所寄合が開かれ、平柴村(安茂里)直八が松の木を盗んだかどで手鎖(てぐさり)にされる。旭山の松は寺の御用木で勝手に切ると処罰される。二月三日には赦免される。岩石町のみわと久右衛門がかるた博打(ばくち)のことで押し込め、手鎖を申しつけられる。同町六三郎の訴訟事件を吟味する。

 二十九日には先に願いでていた祠堂金係免除願いが却下され、逆に「これからの取り計らい方について書面を出せ」と命じられた。相談のうえ、寺侍四人の連名で改訂案をつくって提出する。祠堂金とは慶運の寄付金や信者が寄進した金を寺の基金として領民に貸しつけて利殖をはかっているものであるが、天保四年以後こげつきが多くて経営が不良になりかかっていた(七節「善光寺の祠堂金」参照)。毎月、御用日に寺侍一同が立ちあって貸しだす。いままで、困窮者には年賦返還を認めていたが、この春改券して、年賦さえ怠っているものは当人は戸締め、加判のものへは弁金(わきまえきん)上納を命ずるなどが取り扱い案である。また、祠堂金係を寺侍の年番とし、この年は今井がその当番になった。

二月

 三日の役所寄合では、大門町彦八ら三人が松代木綿会所になれあって、町のために不利益な取り計らいをしたというので、手鎖などに処せられる。これはなかなか興味深い出来事で、善光寺町の町民はあくまで善光寺町の町民として行動すべきで、松代藩の手先になってはいけないと戒めたのである。これは、十二日に菩提寺や組合などの嘆願で許された。この日、祠堂金改券の日取りおよび滞り利子の上納を庄屋に申しわたす。

 二十四日には、矢島十太夫の訴えにより手付(てつけ)を出役させて犯人二人を召しとる。手付は代官配下の同心(足軽)で警官の役をしていた。二人ないし四人である。人口約八〇〇〇の寺領だが、同心四人でなんとか秩序を保っていた。

 二十五日には大門町宿年寄坂口市之丞をやめさせたいという願いが磯右衛門から別当に提出される。市之丞は、分家の半兵衛というものと二人で更級郡今里村(川中島町)久右衛門のところへいかがわしい荷を送り、それを質にして金を借り、期日になっても返さないので信濃国御取締蓑笠之助(みのかさのすけ)(中之条代官)の手代の呼び出しをうけた。磯右衛門は手代へかけあい、かならず返金するからという約束で吟味をやめてもらったのに、市之丞は返金せず今度はまた、取締大原吉左衛門(同前)の手代の吟味をうけ、借金を返して一件落着した。取締、手代のいうことは聞くが、寺領役人のいうことは聞かないというのは「当役所を軽蔑(けいべつ)候筋」にあたるから、宿年寄役を取りあげ、押し込めを命じたいというのである。これは翌二十六日発令され、市之丞は宿年寄免職、押し込め、大門町滝沢八郎治が宿年寄に任命される。

三月

 三日、市場一件の骨折りの賞として、別当から画幅や盃をあたえられる。八日、九日と二日つづけて本堂付近で首くくりがある。大本願の山極に連絡、手付をつれ見分し、塩漬け、仮埋葬にする。その一人は諏訪郡下桑原村(諏訪市)馬次郎というもので、十八日にその五人組のものが出頭したので、死骸(しがい)を見分しろといったが、見る必要はないといったので、持ち物だけ引きわたした。十一日には例年どおり町回りをする(日は一定していない)。代官・手代・大本願代官・被官二人、町年寄三人、地割方というメンバーでおこなう。公式な町勢視察だが、狭い町内を一日がかりでまわっている。天保七年は特別事件が多かったので、二日かかった。

 幕末ころの町回りのコースはつぎのとおりだった(「町年寄役年中行事」)。

 御霊屋(おたまや)(大本願北)-御霊屋小路-西之門町(下り・上り)-上西之門町(上り・下り)-桜小路(桜枝町)-あら町-朝鮮長屋-桜小路(町はずれまで行き引き返す)-桜花庵(小休止・茶菓子)-立町(下り)-阿弥陀院町(栄町)-西町(下り)-天神宮町(上り)-西方寺(裏から入る。小休止・茶菓子)-広小路-大門町(上り)-横町-東町(下り)-下堀小路-大門町(下り)-問屋(小野家、小野家は嘉永元年に問屋を免じられているから、この記事はそれ以前のものと考えられる)-馬改め(酒肴・茶漬けなど出て昼食)-後町(下り)-鐘鋳(かない)小路-武井(武井神社神主家か虎石庵(こせきあん)で休み)-岩石町(上り)-新町(下り)-片場-伊勢町-東之門町(下り・上り)-寛慶寺で七ヵ町庄屋中から酒肴が出て終わりになる。

 町回りのとき、町年寄は野袴(のばかま)・黒羽織・陣笠(じんがさ)で看板・陣笠を供につれ、ことに防火用水を見回る。町々で「纏持(まといもち)・棒突人足、昨年のとおり相違ないか」と庄屋に尋ね、人が替わっていたら名前を報告させる。

 町年寄の火事場出張のときのきまりはつぎのとおりである。

 1 服装・従者 火事羽織・野袴(石ノ帯=草帯)・陣笠・赤手丸(提灯)、床几(しょうぎ)持ち供(陣笠看板着)、ばれん持ち・赤高張、棒突四人(はっぴ・陣笠)、

 2 町年寄付人足 人足大門町三人(西条・藤井・岩下家へ各一人)、西町三人(同)、東之門町一人半(水科家へ)、桜小路三人(藤井・西条家へ各一人、ほかに一人)、東町二人(西条・岩下家へ各一人)、岩石町一人(水科家へ)、後町一人、岩石町一人、新町一人半。

 人足は西条・藤井・岩下・水科の四人の町年寄にそれぞれ配属されている。一人半というのは、二人と一人とが交代に出るのだろう。

 町方はもちろん、近郷火災のときは町年寄四人が出る。鎮火したら、隣町へ跡火に気をつけるよう申しつけ、即刻、大勧進・大本願へ届けでる。火元はだれ、幾竈(いくかまど)、何棟焼失かを調べて中野へ申したてる。近郷、寺領つづきの火災は、月番が出て、跡火を消すように申しつけ、中野に届ける。

 善光寺領では宝暦十年(一七六〇)、消防についての規則をきめ安永十年(一七八一)にそれを改訂している(『市誌』⑧一四二頁)。しかし、消火作業はまったく領民にまかされていて、領主は命令を出すだけで、何もしていない。町年寄が指揮者だった。

 十三日、別当が三社(湯福・妻科・武井)に参詣するので、手付両人が先払いに出る。

 十七日、横沢町伝七が冬に神農講(ばくちヵ)をしたというので、信濃国御取締の中之条代官大原吉左衛門手代中村多雅吉が出役して取り調べをおこない、伝七が請書を出したという連絡が入る。幕府の取り締まりは、たとえば自治体警察にたいする国家警察のようなもので、寺領役人との連絡はよくなかった。

 二十三日、桜小路のますという娘が、品行が悪いというので取り調べのうえ、手鎖(てぐさり)・足枷(あしかせ)を命じられる。「身持不埒(みもちふらち)」が処罰の対象になる点、現在と大いに異なっている(五月六日にようやく赦免になる)。

 二十九日、加賀前田家通行のため出役。すでに十六日松代道橋奉行に人馬の依頼状を出してある。

四月

 十二日、すり八人を呼びだし、取り調べのうえ、追い払いを申しわたす。寺領から追放すればそれですんだらしい。

 二十一日、湯福川のほとりに行き倒れ人があるというので、手付を派遣して見分させ、例のとおり取りはからう。この「例の通り」というのは、「ひにん」の人びとに命じて、箱清水の無縁堂の穴に埋葬する。なお、天保飢饉(ききん)中なので行き倒れ人はこののち、五月十五日(新町)、十九日(大門町)、二十五日(山門東)、六月二十五日(御作事小屋裏)、七月十五日(本堂そば)、八月十四日(畑)、二十七日(本堂そば)、二十八日(落尻)としばしばあるが、五月二十五日の場合だけ同行人があって寺裏へ葬ったほかは「例の通り」である。往来手形もほとんどもっておらず、住所・氏名は不詳である。

五月

 この月は六日、七日、九日、十四日、十九日と五回役所が開かれ、七日には、九件もの取り調べや申し渡しがおこなわれるなど、なかなか多忙である。六日、かねての申請により、東之門町の民樹一(たみきいち)が座頭の座元を命じられる。繭鑑札願名前帳が差しだされる。この帳面にもとづき、十九日に繭鑑札が渡される。これは松代藩から下付されるもので、市場訴訟の結果、寺領商人は松代領商人同様に扱われるかわりに、一定の職業については、松代藩の鑑札を必要とするようになったのだろう。七月二十五日には綿商人の鑑札願いが提出され、松代へまわされている。

 十九日には、松代中町の佐右衛門が、寺領東町庄七ら三人へ送った蓮根代(れんこんだい)が滞っていると、松代の町奉行松木源八の内状をもって訴えでたので、庄七らを呼びだして対決させる(これは二十六日に内済となる)。

 これは他領とのあいだの訴訟事件の処理方法の一例を示すものである。

六月

 三日、定例により御祭礼(祇園(ぎおん)祭)のことを八町三ヵ村宿役人などに申しわたす。天神宮町からすでに五月二十五日に、五年間屋台を休みたいという願いが出ている。祭礼は遊び半分にやるのではなく、領主から命じられて義務としておこなうのである。祇園祭礼のことはこの「町年寄役年中行事」に精細に記されている。

 六月二日に今井代官から、明三日御祭礼役所を開くから、定例のとおり取りはからうよう使者に口上で指示がある。

 町年寄は、すぐに「恒例の通り、明三日御祭礼御役に候間、正五ッ時(午前八時ごろ)参上これあるべく候」という回覧状を八町庄屋・宿役人・三ヵ村庄屋などへ出す。

 三日の役所には今井・中野(大勧進)、柄沢・山極(大本願)、町年寄四人、書役・手付が出席、それぞれを呼びだして申しわたす。それが終わって、内玄関で町年寄から両下村へ申しわたす。

①御祭礼につき諸国から参詣する旅人に、がさつなふるまいをするな。

②あやしいものが見あたったら、取り押さえて注進せよ。

③臨時御用の節、大切につとめること。

 七日に天王社へ町年寄として高張を一本奉納する(立てるのは明日朝)。

 赤飯一重を西町玉屋喜右衛門から、天王社の御供えとして届ける。玉屋は中世以来の商人頭で境内の座売商人から市役を取り立てており、祇園祭で中心的な役割をつとめた。


写真10 『善光寺御祭礼絵巻』の山門前のようす
大門町の屋台が山門前にさしかかる。山門前では大勧進・大本願役人(寺侍)が二人ずつ並び、槍を立てて監視している。両寺が寺領を管轄していることを示す (真田宝物館蔵)

 十日夕、天王屋敷(大門町の一軒をあてる)で大踊(おおおどり)の練習がある。北国街道を境に東方と西方に分け、東方は大勧進が、西方は大本願が指揮する。うたあげ(歌うこと)は大門町の大屋(おおや)は残らず、ほか太鼓二人、笛二人、鼓(つづみ)一人は各町に割りあてる。役人も二人ずつ、町年寄は住所により東西二人ずつ、庄屋も出席する。歌は九首あり、松平忠輝に仕えたのち大門町に住んだ連歌師(れんがし)島田仁左衛門の作といわれる(『長野市史』)。東方が四首、西方が五首歌う。終わって酒と料理が出る。「寒ぶりのさしみ」が出るのは、とくに注目される。岩石町の魚屋はみな地下に雪室(むろ)をもっており、生魚を夏まで保存することが可能だった。

 十三日には早朝から、東西両方の屋台などの引き回しがある。町年寄は大勧進の桟敷(さじき)に、その家族は大本願の桟敷によばれる。しかし、来客が多いので家族は桟敷へ出られないことが多い。

 深更になって町々の屋台・出しものはそれぞれ町々へ引きとる。そののち、灯籠揃(とうろうぞろ)えがある。家の前にあげた灯籠をもち、善光寺に参詣する行事で、行列順はつぎのとおりだった。

 東方

 新町高張・御先乗-町年寄-宿役人-庄屋-問御所村-権堂村-念仏堂長家-三輪村-後町-東之門町-大門町-伊勢町-岩石町-東町

 西方

 御先乗-町年寄-宿役人-庄屋-西後町-新田村-中御所村-影山村-日影村-腰村土部(どぶ)組-上西之門町-桜小路-下西之門町-阿弥陀院町-西町-大門町-石堂村

 この灯籠揃えでは、寺領つづきの村々がかなり加わっているのが注目される。それらの村々は、客分待遇らしく、東方では問御所村(椎谷領)、権堂村(幕府領、天保二年以降、松代御預り所)が町村の先頭であり、西方でも西後町(妻科村後町組、松代領)、新田村(妻科村新田組、松代領)、影山村・日影村(芋井)、腰村土部組(西長野)などが先に立っている。石堂村(妻科村石堂組)が最後なのは、加わった年代が新しいからだろう。これでみると、現在の中央通りの町々は全部参加している。石堂村は町並みになったのが新しく、参加がおくれたものと思われる。山間部の芋井地区の小集落二ヵ村が参加しているのは驚かされる。

 十四日にも屋台巡行がある。

 このころから食糧事情がだんだん悪くなってきたらしく、十七日には大門町の滝沢助之丞、新町の藤沢長治郎(ともに穀問屋)の二人へ、飯山から移入する穀類などの世話を命じる。二十日には、八町から御蔵籾(社倉籾)の下付を願いでたので、二十五日には飯山から一〇〇〇俵移入する内金として一〇〇両を長治郎に貸しわたす。

 十三日には岩石町の肴問屋林彦右衛門・弥助の二人が、四月ころ大豆島(まめじま)村(大豆島)へたくさんの肴を送ったというので、押し込めを申しつける。間道を送ったのが不届きというわけだが、食糧不足の折から町外へ荷を送るのはいけないという意味もあったかもしれない。

 翌日、宿内の馬子(まご)どもを召しだし、岩石町肴問屋の件をひととおり尋ね、以後、間道を付けおくってはいけないと申しつけ、四月中に大豆島村への荷を運んだ天神宮町の馬子和吉に手鎖を命ずる(以上の三人は二十七日に赦免された)。

七月

 この月中に宗門改めをおこなう。下調べは、町年寄が年番でつとめ当日までに調べておく。役場(今井邸)でおこなう。座敷に双方役人(代官・手代)二人ずつ計四人が着座、次の間(西側)に町年寄四人が控える。南の次の間には両寺の被官、襖(ふすま)にそって八町三ヵ村の庄屋が並ぶ。玄関の間には、両御門前(横沢町・立町)と手付・同心が並ぶ。昼時には赤飯が出る。重役(役人)と町年寄までは足つきの膳だが、庄屋は膳なしで、士分と町民との差がはっきりつけられている。町年寄は帯刀できるので士分である。


図8 宗門改め着席次第 場所は今井代官邸
(「町年寄役年中行事」により作成)

 二十六日、武井神社へ町年寄から高張一本奉納、二百十日ころ、山留めの沙汰(さた)があり、町年寄から八町三ヵ村庄屋、三ヵ寺(寛慶寺・西方寺・康楽寺)、両斎藤(寺・武井神社)へ達する。松茸が出るためである。

八月

 七日、穀問屋・穀屋を残らず呼びだしておいて、町年寄・地割方に穀改めを命ずる。穀買いだめの有無を調べたのである。穀屋行司西町彦二郎ら三人が押し込めを命じられる。たぶん無届けの貯穀をとがめられたのだろう。十日に穀屋行司三人の押し込めが許される。十七日、松代藩へ借米の交渉に出かけ、二十日に帰宅する。内談がととのったらしく、二十五日には使僧良性院が、不祝儀のあいさつを兼ねて正式に依頼にいく。

 八月二十八日には大門町八十吉(やそきち)・吉右衛門が囲(かこい)から御免になる。囲というのは代官屋敷の近くにあったらしい牢(ろう)で、八十吉は六月二十四日に身持不埒という理由で入牢させられてから二ヵ月である。そのあいだ、六月二十九日、長兵衛という男が、囲へ無断で近づいたというので手鎖に処せられ、七月十日には八十吉を呼びだして親類に面会させている。七月二十五日には大門町の長右衛門が家出していた先から帰つてきたというので牢へ入れられ、八月二十六日、この二人とも出牢している(二十日祠堂金取り立て。割納めになって、町年寄も出席。幕末ころからである)。

九月

 六日、松代から借用米を渡すため、藩役人が出張し、大門町中沢与三右衛門(扇屋)に泊まる。七日に借用米を蔵に積みいれる。十七日には再度借用米の交渉に松代へ行き、内諾を得て二十二日に帰る。二十三日・二十四日と町年寄を借用米請願のため松代へ派遣し、二十六日には大本願の山極を同行して、自分で出かけていく。他の小事件の連絡もいっしょにおこなう。

十月

 七日に寄合を開いて町々への手当て米のことを相談し、十三日には町々の中以下のものへ手当て米を支給するということを町年寄をとおして布告する。十五日には町々への手当て米のことについて、宿年寄で穀問屋の滝沢助之丞を飯山へ派遣する。この日、寛慶寺住職病死の届が出たところで、代官の日記は終わっている。

 代官の仕事はなかなか多忙であった。処罰には手鎖・押し込めがもっとも多いが、寺領外への追放、囲入れ(入牢(じゅろう))などもあり、足枷(あしかせ)が一件だけある。行き倒れが八件もあるが、町内の治安は二人の手付(同心)だけでもよく保たれており、盗難届けはよくあるが、一〇ヵ月間に強盗・殺人などの物騒な事件は一件もない。

 わずか一〇〇〇石の寺領であるけれども、町民代表の町年寄も政治に参加し、代官は食糧不足を補うために松代藩や飯山藩から借米のあっせんに奔走するなど、かなりよい政治がおこなわれている。繭・綿商人の鑑札を松代藩からうけるなど、長いものに巻かれている反面、寺領の利益をそこなった商人や、寺領役所を軽蔑(けいべつ)したものを処罰したりして、領民にたいして確実に支配力を保っている。

 「町年寄役年中行事」により、行政などの出来事を補充しておく。

 十月十五日ころ、立冬相場につき、松代藩から後町(妻科村後町組、西後町、以下西後町と記す)名主の深美六三郎方へ出役がある。深美から寺領役所へ連絡がある。それを米問屋内蔵之助(くらのすけ)と穀屋行司へ示す。この両者はそれを参考にして、立冬から一〇日間の町相場を報告する。飯山御用達中御奉行衆から、町年寄あてに書状と鮮魚一尾(じつは内山紙二束)を送ってくるので、返書を出す。この用達衆はこの日は善光寺に宿泊している。二十七日年貢上納相場を定める(以前は十二月三日だった)。

十二月

 二十日祠堂金割納め取り立て。

 二の申(さる)の日、恒例の当山如来御年越なので、八町・宿役人・三ヵ村へ触書を出す。「今何日の夜、如来お年越しにつき、夜番は免ぜられる。とくに火の元を大切に、万端相慎しむよう、組下・小前末々までもれなく触れること。ただし三輪村・権堂村・西後町などへは、最寄りの庄屋から連絡するように」。

 問屋へも、御年越につき、前後宿へ先例のとおり申し通しておくよう連絡する。