佐渡金銀荷物通行は北国街道の最大の任務だった。佐渡を出た金銀荷物は、出雲崎(いずもざき)(新潟県三島(さんとう)郡出雲崎町)から北国街道を通って江戸へ送られる。この街道の野尻宿(信濃町)・牟礼宿(牟礼村)には金銀荷物専用の金蔵があった。善光寺町に泊るときは、善光寺本堂が使用されるのが、中期以後の慣例だった。
金銀荷物は佐渡金山の産出の減少にともなって数が少なくなった。享保六年(一七二一)には三二箱、同十年には二六個、文久二年(一八六二)には九個だった(『信濃町誌』)。金荷物は宿泊の各宿で問屋へ引きわたされ、その夜の保管責任者はその宿場になる。慶応二年(一八六六)には、八駄一六個の金荷が通ることになり、六月十七日に本堂に宿泊、翌十八日早朝出発した。この金荷物通行は、秘密を守るため前触れがない。当日、朝になって突然連絡がある。問屋はすぐに今井代官に報告、代官は月番町年寄西条徳兵衛を呼びだし、先格のとおり取りはからい、人足を申しつけるよう指示する。町年寄はすぐに八町庄屋を自宅へ招集して手配をする。番に出る人数はつぎのとおりである。
月番町年寄
庄屋全員 羽織・袴(はかま)着用
亭主 大門町八人(筵(むしろ)・俵用意)
七町一七人(西町五、桜小路四、横町・新町・後町・岩石町各二)
人足 一七人(割合は亭主に同じ)
本堂中陣に金荷を東西に並べ、西がわに役人と双方被官、東がわに町年寄・宿人足・妻戸(つまど)、北がわに庄屋、それをとりまいて亭主・人足の番人が立つ。入り口には下村の二人が番人に立つ。
昼ごろには、番の用意ができ、金荷も着く。翌朝、金荷が出発する。きわめてあわただしいが、混乱なくおこなわれ、寺領内の連絡、指揮系統がスムーズに機能しているようすがうかがえる。