庄屋請状・町年寄の申し渡し

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善光寺領では、毎年正月、初寄合のとき、八町三ヵ村庄屋が連名で庄屋の職務を守るという請証文を提出することになっていた。そこには、庄屋が監督して町民に守らせるべき事柄が書かれている(以下「 」内は『長野市史考』付録史料三九の口語訳)。

①「火の用心を大切にし、ことに自身番は夜半すぎに、とくに注意して勤めること」。善光寺町では各町々に自身番があり、町民が交代で勤務していた。②「番所水溜桶(みずためおけ)は申すにおよばず、そのほか、消火道具が破損したら早速申しでること」。善光寺町では町々に備えるべき消火道具が定められていた。これは宝暦十年(一七六〇)に定員とともに定められ、全町でおよそ二〇〇人くらいは火事のときすぐ駆けつけるように指定されていた。善光寺町では寛永十九年(一六四二)から慶応三年(一八六七)までに三〇戸以上を焼く大火が一九回、うち宝暦元年の桜屋火事、弘化四年(一八四七)の善光寺大地震では、全町の大部分が焼失、町の三分の一から半ばを焼いた火災も七回おこっており、およそ三〇年に一回は大火に見舞われている。ことに宝暦年間(一七五一~六四)に、六回も大火がおきている。宝暦十年の火災のとき、塗屋(ぬりや)(壁を厚く塗った家)で焼けどまったので、その後は領主善光寺が塗屋を奨励、塗屋を建てたものには一〇両ずつ貸与したので、塗屋が多くなり火災も減少したという。同程度の町だった松代町では、近世の大火は一〇回で、善光寺より少なかった。これは敷地の広い武家屋敷が多い松代にくらべ善光寺町が狭い傾斜地に民家が密集していたという悪条件にもよるだろう。それだけ善光寺は消防の組織にも力を入れ、宝暦十年、各町の五人組ごとに水籠(みずかご)などを用意させ、「欠付(かけつけ)とび」という火事のときすぐ駆けつける人足をきめて報告させた。たとえば東町では、各組ごとに水籠(一三個から一五個まで)などを用意し、「欠付とび」には一〇人が定められた(『県史』⑦一二四一)。この規定は安永十年(一七八一)に改定され、人数や定備・防火・消防道具などの細部まで定められた。ただしじっさいの火災のとき、これらの「町火消」がどのような活躍をしたかはよくわからない。③「店(たな)置替え(借家人交替)は念入りに吟味し、二月中に調査し終わること」。これは善光寺町の「借家御請状之事」と題する借屋証文が一年契約で毎年書き換えられていることからも、指示どおり実行されていたことがわかる。④大家(おおや)の心得。善光寺町の大家は、ふつうの村の本百姓にあたる。借屋は原則として一人前の町民ではない。それで借屋人の取り締まりは、大家をとおしておこなうことになるので、大家へは町年寄から庄屋をとおして種々の心得が示された。文化年間(一八〇四~一八)に申し渡されたことが、弘化二年(一八四五)にまた重ねて申しわたされた。

(ア) 借屋の出所・身元・家業をよく確かめる。

(イ) 送り状のないものには貸さない。

(ウ) 借り主・請人が確かなものであったら五人組へ相談し、五人組の同意があったら組頭から庄屋へ申しでる。

(エ) 女の名前で借家して、人別入りしていないもの(宗門帳にのっていないもの)が住んでいる場合は、庄屋・組頭が見まわり、引き払いを命じその旨届ける。

(オ) 空き屋を物置に貸すなどと申し立て、人別に加わらぬものを置いている場合もあるが、決してそういうことをしてはならない。

(カ) 店(たな)証文を請人が死んでも、もとのままで書いて差しだすようなことはいけない(店証文は毎年書きかえるので、形式的に流れやすい)。

 ⑤「店証文がすんだら、庄屋・組頭が立ち合い、竈(かまど)数を改め明店(あきたな)へは封印しておく。借り主があったら、年の途中でも店証文をとる」。

 このような調査や取り締まりの結果は、「家業改帳」・「家内帳」、それらの集計として「善光寺領人別改人数寄帳」・「善光寺領人数并(ならびに)七十歳以上之者抜書」など、多数の書類が作成された。たとえば、明和元年(一七六四)には総人口七〇〇九人、七〇歳以上の人は二二二人で最高は九〇歳の女性だった。安政五年(一八五八)には六三五〇人でかなりの減少を示している。これは弘化四年の善光寺大地震による町の全焼の影響が大きいのだろう。

 ⑥「町々家業帳面を二月中に、宗門帳は四月中につくって町年寄月番へ提出する」。このようにして作成された「家業帳面」や「宗門帳」は大勧進に集められ、大正十四年(一九二五)『長野市史』が編さんされたころまであったらしいが、寺の歴史と直接関係がないので処分されてしまったという。⑦「婚礼の節、石打ちをすることは先年禁止したとおり堅く禁止する。婚礼の節は、その向い屋へ自身番を移しておき、石を投げたものはすぐに捕えて訴える」。この禁令は何度もくりかえされている。寺領平柴村では、嫁入り行列に石が投げこまれて破談になった実例があり、善光寺町やその周辺には、婚礼の場へ投石する悪習がかなり根強く残っていたらしい。その取り締まりは自身番など、町民の自治にまかされており、領主の警察の組織ははなはだ貧弱で、そのため松代藩の介入を招くようになった。