善光寺領と松代藩の関係

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善光寺領は事実上松代領に囲まれており、独立領としてはあまりにも小さいので、松代藩の保護領のような形になった。

 天和二年(一六八二)、日光門主(善光寺本寺東叡山(とうえいざん)別当)から、松代藩につぎのような依頼があった。

「善光寺は真田様の御領内ですから、前々から町人・百姓は、松代御領内と同様に仰せつけられている由です。御面倒ですが、今後も前々のように、御領分同前に仕置きをしてください」(『市誌』⑬八〇)。つまり、善光寺領民を松代領民と同様に扱ってくれというのであるが、その具体的内容には触れていない。善光寺領では、領民の取り締まりは寺役人がおこない、寺領追放、闕所(けっしょ)、入牢(じゅろう)、手鎖、押し込めなどもみずからの手でおこなったが、警官の仕事をする同心は、三、四人しかいないので、凶悪犯などの逮捕はむずかしかったと思われる。しかし、領民の取り締まりについて、松代藩に依頼した例は、近世前・中期には知られていない。

 最初に問題が生じたのは、文化十年(一八一三)の善光寺町の米騒動のときである。この年、十月十三日、町内の貧民が蜂起(ほうき)して、穀屋・酒屋など二三軒を打ちこわした。町つづきの松代領西後町でも四軒が被害にあった。

 善光寺では怪しいものを取り調べた結果、手鎖二人、腰縄九人をきめ、負傷者五人とともに組合預けにした。ところが、松代藩では別に捜査を開始し、二十四日には容疑者一八人が寺役人から松代藩役人に引きわたされた。十月晦日、被害者である穀屋仲間から「吟味御流し」を嘆願し、八町庄屋からも同様の嘆願書が出された。十一月三日には大勧進から使者が遣わされ、「なるべく手軽にすませてくれ」と申し入れた。

 いったい、この事件で騒動をおこした連中は松代領へ侵入するつもりはなかった。しかし、松代領の西後町の人びとが、寺領との境にはしごを並べて西後町へ入れないようにしたので、「このまま引きさがっては臆(おく)したとあなどられる」といって、はしごを押し破って西後町へ侵入したのだという。

 また善光寺がわにも弱点があった。この事件の直前、大勧進住職亮寛(りょうかん)は代官今井磯右衛門をやめさせて、上田丹下(たんげ)を代官とした。今井家は代官を世襲して大きな力をもっていたから、この事件は善光寺町に大きな動揺をもたらした。この磯右衛門の父、六代目磯右衛門は三十余年代官を勤め、俳人としても有名で一茶とも交際があった。上田は、先代が新大勧進住職に随行して東叡山から入った家来で、代官の力が大きくなりすぎたのを警戒した大勧進住職が東叡山の力のおよびやすい家来のものを新代官にしたらしいが、町民は今井に同情的で、この米騒動もこの人事による動揺のなかでおきている。

 この事件で、寺当局も町民も刑事事件で松代藩に介入されることの不利を覚った。

 いったい、善光寺町と松代町は、対立的な立場にあった。善光寺町は中世以来の町で知名度も高く、北国街道に沿い、北信濃第一の都市であった。いっぽう松代は一〇万石の城下で、政治的に善光寺より優位に立っていた。しかし、もともと要害の地に築かれたもので、そこを通る北国街道も近世には脇街道となり、立地条件は善光寺より劣っていた。しかし、松代藩が専売制を強めていくと、善光寺町はしだいに不利な立場に立たされた。

 天保四年(一八三三)、松代藩が産物会所をもうけて一定の商品を統制し、また領外への食糧移出を禁止したので善光寺町は困り、翌年、松代藩に嘆願して善光寺領も松代領と同様に扱ってもらうことにしたが、これは寺領の独立性を制限されることでもあった。嘉永二年(一八四九)からおこった善光寺大門町と松代御預り所権堂村との争いで、松代藩の役人が善光寺領に踏みこんで各町の惣代を召し捕るという事件があり、善光寺はそれを東叡山へ訴え、「松代藩の外護(げご)権」の実態はどういうものであるかが問題になった。東叡山からの質問にたいし、松代藩では、寺領も領内同様に取り締まる。天和二年、日光御門主から「町人・百姓の儀は御領内分同然仕置き仰せつけられ」るよう依頼があったと主張した。それにたいして、善光寺がわは松代藩の主張をいちいち反駁(はんばく)し、善光寺領の一〇〇〇石は御当山(東叡山)の支配であって、百姓・町人を真田家の支配と考えているのは、公辺(幕府)や御当山にたいする軽蔑だと反論した(『長野市史考』付録史料四一)。

 このように、一時的な対立はあったけれど、善光寺と松代藩との関係はおおむね平穏であった。善光寺はきわめて微弱な警察力しかもたなかったけれども、町の治安はよく保たれており、殺人、強盗などの凶悪犯はごく少なかった。これは、いっぽうでは秩序が松代藩の大きな武力に支えられているという面があったものと考えられる。