諸料物金は、正徳四年(一七一四)、大勧進慶運が本堂建立の残金四二九両を寄付したのに始まる。それに年々施主の寄進などが積みかさなって、嘉永七年(安政元年、一八五四)現在、累計五四四八両に達した(表6)。これは「諸料物本元帳」という台帳に全部記されている。内容はつぎのとおりである。
①正徳四年 (一七一四) 四二九両 慶運寄付
②享保(きょうほう)九年(一七二四) 二〇両 勢州時和(ときわ)(三重県伊勢市)富山与惣兵衛
③同十三年 五両 江戸先手与力
④元文(げんぶん)五年 (一七四〇) 一五両 江戸講中
⑤寛保(かんぽう)元年 (一七四一) 一六両 大坂山城屋栄閑
(中略)
⑥天保(てんぽう)元年 (一八三〇) 七両 江戸神田女人講中
(中略)
⑦天保七年 二歩(分) 洗馬(せば)念仏講中
(下略)
①は慶運の寄付金に開帳料などをふくめたもの。②は衆徒阿弥陀経読誦(どくじゅ)料。③は開帳料。④は唐銅(からかね)大香炉を寄付して、その抹香(まっこう)料として納めたもの。⑤は「毎朝瑠璃壇(るりだん)に於いて御回向(えこう)料」である。⑥は女人講中の御回向料。⑦は御内仏銅灯籠(とうろう)一台奉納につき、当年から一〇ヵ年間に五両奉納するつもりで、その当年分である。
このように、おのおのの寄進金は、それぞれ開帳料とか回向料とかの具体的な目的をもって寄進されているのであり、寄進者には大名もあれば、庶民もあり、講中もたくさんみえている。この史料による諸料物金の増加状況は表6のとおりである。ただし、これは元本のつぶれがないものと仮定して単純に累計したもので、元本は貸し倒れなどによって、台帳どおりに増加しなかったことはいうまでもない。寄進のもっとも多かったのは、文政四年(一八二一)~弘化三年(一八四六)のあいだで、弘化四年以後急に少なくなったのは、弘化四年に善光寺大地震とよばれた地震があり、多数の参詣人が横死したため、一時善光寺信仰が下火になったためであると思われる。