元金のうち、預かり金(預金)にたいしては利子を支払わなければならない。預金利子は、最高一割で、多くはそれ以下であった。表9は祠堂金運営がかなり不健全化したときの例ではあるが、寺院または先住の預け金が八分、伝馬町基金が一割、御花講預金が九分、その他は五分以下で、個人の預金はほとんど二分もしくは無利子に値切られている。天保九年に退職した大勧進住職光純はつぎのように書いている。「大勧進の永代諸料物と預かり金とは、文政五年(一八二二)現在、一万九千余両ある勘定になっているのに、貸出金はようやく八八〇〇両ほどしかなく、一万両余の貸不足になっている。そのため、年々利子が六〇〇両余も不足して、どうしてもやっていけなくなってきた。そこで、祠堂金として預かっている金にたいしては、一割で預かっている分はすべて五分またはそれ以下とし、その他の預かり金もなるべく利安に、できれば無利足にしてくれるよう、千辛万苦して頼んでみたが、『金主請け取り方にては、実以て迷惑難渋』の由をいいはったけれども、ともかく無理やりに頼んで利下げをさせた。そのため『当御別当誠に御無理なる御取計』といろいろ風評もたち困っている」。このように、文政四年から天保九年までの光純在職中財政の行きづまりを反映し、しだいに利下げをおこなったことがわかる。
しかし、従来の預かり金を利下げするとともに、つぎつぎと新しい預かり金を導入するので、それについては、曉淳入院以後の安政元年(一八五四)それぞれ利下げをおこなっている。大門町伝馬金もこのとき五分に、御花講金は六分に下げられ、その他町人の出資金などは踏み倒し同様に処分されてしまうが、これについては、また後述する。