貸しつけ先および貸しつけ方法

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祠堂金貸しつけは、はじめ領内の庄屋や富商など有力者に貸しだされた。慶運の寄進した最初の祠堂金は、箱清水村庄屋金井重左衛門などに割りあてられ、重左衛門は全不動産を抵当に入れ、組頭四人を請人にして一三〇両を借用している。

 表10は祠堂金の貸し出し状況を示している。文化ごろからしだいに貸し不足金が増加し、天保八年には、貸しだしてある金が元金の半ばにしか達しない。この貸し不足の大部分は貸しつぶれである。天保八年現在、貸し出し中の九千余両のなかにも多数の不良貸しつけがふくまれている。この貸しつぶれは大口が多く、大口貸しつけをうけたものはそれをさらに自己の責任で小商人らに又貸しするわけであるが、そのような有力商人がつぶれると被害が大きかった。さらにもっとも注意すべきは、大勧進住職や寺侍と、商人との縁故関係による貸し出しであり、営業不振の御用商人に多額の融資をして、それが焦げつきになった例は、後述の五重塔料の使途などにもっとも明白にあらわれている。


表10 祠堂金貸借

 つぎに、貸しつけが一部有力者への大口貸しつけから、しだいに多数の一般領民への生活資金的な小口貸しつけにかわっていったことも注意しなければならない。このような小口貸しつけは庄屋が請人となり、借用願いも庄屋が集めて提出し、寺の台帳には、何町何両というように町ごとにまとめて記されるようになった。この場合も、借用にはかならず不動産担保を必要とするので、不動産をもたないもの(借地・借屋)は、貸し出しを受けられないことはいうまでもない。領民の多数が祠堂金を借用するようになると、毎年十二月の利子上納は一種の貢租のようになってきた。嘉永二年(一八四九)、善光寺大門町と町つづきの花街の幕府領権堂村とが争ったとき、善光寺町が寺社奉行に出訴するために、領主大勧進の添翰(そえかん)を得ようとしてなかなか得られないため、ついに祠堂金利上納御免の願いという利子不納運動をおこしたことなども、祠堂金利子が領民多数に関係した一種の年貢のようなものであったことをよく示している。


写真11 祠堂金借用証文 寛政12年(1800)七瀬村の八右衛門が10両を年利1割2分で借用した。請人のほか、庄屋・組頭が連署し、衆徒3人と大勧進代官・手代にあてている。返済されたので、村役人の印は消してある (個人蔵)

 表11は天保八年(一八三七)および嘉永六年現在の貸しつけ先を示すものであるが、貸しつけ金の元金の減少がいちじるしいのは、元金が返済されたためでなく、天保十四年に古来からの貸しつぶれ金三五四〇両を除帳するなど、帳面上の整理をおこなったからである。表納戸暮方(おもてなんどくらしかた)、御修復料などへ貸し出されているのは、祠堂金会計がいちおう独立会計となっているため、住職生活費や営繕費の不足が祠堂金で補われているのである。


表11 祠堂金貸しつけ先

 なお、表納戸暮方不足金が住職の私金で補われた場合、それが祠堂預かり金となる場合のあることについてはさきにのべた。寺役人への貸しつけは「役人三人ならびに馬島主税(ちから)、先々代より追々拝借、当時無利息長年賦」という恩恵的な貸しつけになっており、なお、役人たちは別に祠堂金への出資金約四〇〇両を有していて、それにたいする利子をもらっていることも先に注意したところである。

 貸しつけ金利は、享保年間(一七一六~三六)には一割五分であったが、明和ごろ一割二分となり、文化九年(一八一二)には一割に下げられ、安政二年(一八五五)以後、古借はすべて五分か無利子になった。ただし新規貸し出しのときは以前のとおり一割である。幕府の許している最高利率は、元文(げんぶん)元年(一七三六)以後一割五分、天保十三年以後一割二分であるから、善光寺祠堂金の利子はむしろ低利であったといってよい。

 善光寺では、五重塔建立の資金を得るため、寛政六年(一七九四)から十年まで諸国回国開帳をおこない、浄財一万三千余両を得たが、五重塔再建が不許可に終わり、その金は寺の基金とされた。許可運動などにかなりの金が支出されて、残金は八六一六両であった。これも主として貸しつけ金になったが、祠堂金とは全然別途に扱われた。これについては後述する。