住職私金の祠堂金

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 このほか、とくに注意すべきは、住職が私金を祠堂金に託して領民に貸しだしていることである。その実例はつぎのようなものである。

  晃道(こうどう)師御志願物  四五〇両

 大勧進住職林泉院権僧正(ごんのそうじょう)晃道が、私金を在職中の文化十一年(一八一四)から文政四年(一八二一)まで祠堂金に委託したものである。晃道退院後も、その遺産相続者(東叡山寒松院、のちには玉照院)が引きつづき債権者であった。利率は天保九年(一八三八)現在八分であり、他の債権より優遇されていたが、天保十一年、大勧進の困窮を理由として、「晃道様御志願物元利返納御約定書」という取りきめが、大勧進住職と寒松院とのあいだで結ばれた。このときの約定では、五分利一五ヵ年賦ということであったが、約定どおりには返済されず、安政元年(一八五四)現在まだ三一二両が残されている。

  光純師御志願物  一三八〇両

 大勧進住職浄厳院光純が在職中(文政四年~天保九年)に領民に貸しつけたものである。後住山海の記すところによると、光純の私金を祠堂金として一割二分で町方へ貸しつけ、役人たちから手形をとっておいたものをいう。退院後、しばしば返済を要求してきたが返済できず、天保九年当時元金貸しつぶれを理由に無利子となっている。安政元年現在、七五〇両が「修禅院様分浄厳院様御志願物」として残っている。

 光純の後住山海はこのような私金貸しつけをおこなわなかった。祠堂金制度がすでに崩壊にひんしていたためであろう。また、晃道以前にこのような貸しつけがおこなわれたかどうかは不明である。おそらく、回収がスムーズにおこなわれて紛議がおきなかったため史料が残らなかったもので、じっさいには晃道・光純二代におこなわれたのと同様なことがおこなわれたものと思われる。要するに、寺院経済の窮乏にともなって、新しい祠堂金や、または預かり金として導入された金が寺の経済の赤字補填(ほてん)に使われており、それが積もりつもって幕末には動きのとれないところまできていたといってよい。