文政八年十月、大勧進光純はつぎのような手きびしいことばで、役人はじめ院内一同を戒めている。
本坊什金料物(じゅうきんりょうもつ)ならびに諸向き取り調べにつき、かねて一同心得として申しわたしおき候の事、さる文政四年十月入院以後、早々表納戸から料物帳を取りよせ調べたところ、はなはだ不審千万のところが多く、だんだん前後の勘定帳をみると、享和元年(一八〇一)等順僧正御隠居以来、文政三年まで二〇年ほどのあいだ、料物勘定帳はもってのほか不束(ふつつか)のようすであり、年々莫大の借入金を入れて辻褄(つじつま)をあわせている。そこで所々に付箋をして、そこを詳しく調べよと命じたところ、ようやく翌年十一月に取り調べの結果を納戸から提出した。それを見たところ「言語道断の始末、不埒(ふらち)至極之事共であり、このままにしておけば『大勧進寺院は遠からざるうち、たちまち滅亡に及ぶ』べきありさまである。このうえは自分は辞職引退するよりほかないが、それでは責任が果たせない。諸料物の儀は、じつに本坊はもちろん、善光寺一山の興廃にかかわり候事故、打捨て難く」、お互いに努力をかさねてこの難局を切り開いてゆかねばならぬ。
このような光純のはげしいことばのなかにも、祠堂金運営が、寺院経済と固くからみあい、その失敗は「大勧進寺院の滅亡」をまねき、「善光寺一山の興廃にかかわる」ほどの大事と考えられていたことが、よくうかがわれる。表11における表納戸暮方への貸しつけは、帳簿に計上された分であるが、じつは同じ寺院の内部の操作であるから、かなり自由に融通されているとみてよいであろうし、貸しつぶれが相当あるのではなかろうかと思われるが、その点はよくわからない。