貸しつぶれ

318 ~ 319

祠堂金運営の失敗の原因としては、貸しつぶれの多かったことと、大勧進自体の経済が困窮してきたことの二つの原因が考えられる。いま、そのおのおのについて考えてみよう。

 祠堂金貸しつけは、原則として確実な不動産担保をとって貸しつけるのである。したがって、ときには人が金を借りているのではなく、不動産(たとえば家屋敷など)が金を借りているという形になることがあった。家屋敷を売った場合、その家屋敷を抵当とした債務が買い主の義務となることが多かった。そしてこの担保は、他の債権に優先する第一担保であるので、他領の金貸しは、善光寺領への不動産担保貸しつけを好まぬ傾向があった。このように祠堂金貸しつけはかなり確実性のある貸しつけであったのに、しだいに多くの貸しつぶれが生ずるようになった。嘉永七年(一八五四)の調査によると、天保十四年(一八四三)までに三五四〇両が貸しつぶれになり、その後、さらに三一二九両が貸しつぶれとなり、現在は三〇八六両しかないといっている。つまり、元金の三分の二以上が貸しつぶれになっているのである。

 貸しつぶれの理由はいろいろあろうが、主な理由としてつぎの二つが考えられる。①情実貸しつけが多かったこと。②貸しつけ先が主に領民であったため、領主としてあまり強硬な取り立てができず、領民にも足もとをみられ、ついに祠堂金貸しつけが一種の窮民救済の意味さえもつようになったこと。この二つについて説明することにする。