情実貸しつけ

319 ~ 321

これについては、五重塔料の貸しつけにそのもっともよい例がみられる。

すでにのべたように、善光寺は五重塔建立資金として寛政六年(一七九四)から十年まで、諸国回国開帳をおこなって金を集め、一万三千余両を得たが、幕府の新規造営禁止の方針により建設不許可となり、その金が寺の基金となり、その利子を堂塔修理にあてることになった。これは五重塔料とよばれ、別途会計として扱われたが、その運営は情実貸しつけなどによりみじめな失敗におわった。

 まず、この金は建立許可運動費などを差しひいた結果、残金は八六一六両であった。

 この金が八年後の文化三年(一八〇六)、どのようになっているかを調べるとつぎのとおりである。

 ①三〇〇〇両 東叡山御用金

 ②一二二二両 町内救いとして無利足長年賦貸付

 ③一一〇〇両 町内救い頼母子(たのもし)

 ④一一〇〇両 谷(西条)九郎左衛門御救いとして無利足年賦貸付

 ⑤ 二九〇両 回国供養の僧俗へ無利足長年賦貸付

 ⑥一三三六両 享和三年(一八〇三)、浅草伝法院における出開帳不足金に支出

 ⑦ 一〇〇両 真田家へ預け金

 ⑧  五一両 五重塔地所代

 計八一九九両

 ①の三〇〇〇両は五重塔建立が不許可になる早々、東叡山から御用金として上納を命じられた分である。②の町内救いの分は領民救済のためではなく、一九人の商人にたいして貸与されているのである。③の町内頼母子というのも、谷への資金のあまりにも多額にみえるのを防ぐ帳面上の偽装で、じつは谷に貸しつけられている。同人はその後、破産状態におちいったが、債権者が多すぎて取りつぶすことができず、営業をつづけさせてほそぼそとでも借金を返していくよう債権者が取りはからうというあわれな状態となり、この口が焦げつきになったことはいうまでもない。最初から谷を救うための危険な情実貸しつけであり、谷が住職にじきじきに頼んで貸してもらったものであった。谷のほかに、藤井茂右衛門(酒造業)にたいする八一五両の貸し出しがあり、それが「町方救い」の過半を占めている。④の谷九郎左衛門への一一〇〇両は、住職の独断で御用商人たる谷へ貸しつけられたもので、⑤は回国開帳の供をしたものにたいするボーナス的貸しつけであり、⑥は享和三年の江戸開帳が不振で赤字を生じたので、その穴埋めに使われている。⑦は江戸開帳のとき世話になったというので、真田家へ貸し出されている分である。このようにみていくと、貸し出しの大部分が不良貸しつけ、もしくはそれに近いもので、元金の保全・利殖という面では、この五重塔料の運営はまったく失敗であるといわざるをえない。その使途がかなりルーズであり、このような放漫な貸し出しをつづけていけば、その大半が焦げつきになるだろうことは当然予想される。祠堂金貸しつけについても、事情はまったく同じであり、寺役人にたいする無利子長年賦の貸しつけなども同じ意味をもつものであろう。

 善光寺は小封建領主であって、領民との関係はいろいろな意味で密接であった。前にのべた情実貸しつけも、裏を返せば、恩恵または救済の意味ももっているわけである。したがって、その取り立てにはかなり手心が加えられる。祠堂金元金の大きな貸しつぶれは、この面からも考えなければならない。谷家は復興し、子孫はその後も西条徳兵衛として町年寄を世襲している。