役人の態度

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現在、善光寺大勧進には、祠堂金利子免除願、元金長年賦願、元金減免願などが多数残っている。たとえば文政二年(一八一九)十二月、岩石町の七右衛門は親が病死したので、元金六一〇両の利子六両の上納延期を願っている。また文政六年十二月には、西町弥左衛門借用の一二〇両について、四五両上納で取りきりにしてほしいという願書が出ている。弥左衛門および倅(せがれ)が病死し、嫁一人残って手稼ぎのその日暮らし、抵当の家屋敷を組合へ差しだして四五両だけ工面したというのである。このような病気・火事・商売失敗等々、あらゆる不幸を書きつらねて利子上納延期、元金割引などを願った文書が年末になると続々と提出されたわけである。係の役人の態度としては、こういう場合、二つの態度が考えられる。その一つは領民のいいわけにいっさい耳を貸さず、断固として取るべきものをとりあげるという態度である。借用証文には、抵当を入れ、また、かならず保証人が連署し、借主に万一のことがあっても保証人が支払うことを明記してあるから、強引に取りたてれば取りたてられないことはないわけである。しかし、それには相当な決意がいる。領民の不評判は当然覚悟しなければならない。

 係役人のとりうる態度の第二は、領民の申し出を黙認して目をつむる態度である。これはもっとも簡単であって手数がかからない。寺侍のとったのは、多くは第二の態度であった。たとえ、その結果、祠堂金元金が段々減少しても、それは一人の寺侍の責任とはいえないし、少なくとも不正を犯したという責任はない。むしろ仁政をおこなったといういいわけも可能である。しかも、徹底的な取り上げというのは、寺侍のみの力では困難であったろうし、もし、それを強行すれば、領民の排斥運動などをくらって、悪役人のそしりをうけたうえ、その地位さえ危うくなるかもしれない。多くの寺侍が安易な仁政に走ったのはむしろ当然といわねばなるまい。寺役人にとって祠堂金の事務はきわめて繁雑なもので、天保七年(一八三六)正月、代官今井磯右衛門・手代中野治兵衛の二人は事務多忙を理由に祠堂金係を免じてくれと出願したが、許されなかった。

 したがって、祠堂金貸しつけは、結果において、多分に救済資金的貸しつけの様相を呈してきた。ただし、表面はあくまで「貸附の儀は願人身元等を取糺(とりただ)し、分限に応じ」貸しつけることを原則としたことは、もちろんである。

 このようないろいろな理由による元金・利子の上納滞りは、幕末にいたるにつれていよいよはげしくなった。三千余両の貸し出しにたいし利子収入は年間四〇両ぐらい、利回りはわずか一分三厘ほどにすぎなかった。表12は幕末における祠堂金運営状態を示したものである。安政二年(一八五五)正月に改券して整理した分は五分または無利子であり、元金上納は安政二年に八二両でやや多かったが、それ以後はすべて五〇両以下であり、ことに万延(まんえん)元年(一八六〇)以後は二五両以下に下がっている。元金の回収が元金の一パーセントにもおよばないわけである。しかも、これらの元金上納は祠堂金貸しつけの抵当になっている不動産が第三者の手に渡った場合、その取得者が所有権をはっきりさせるために、だいたい元金を半分くらいに値切って上納したものであり、領民自身が借りているかぎり元金は返さないのがむしろ当然のようになっていたのである。


表12 幕末における祠堂金運営状態

 この祠堂金の後始末がどうなったかは、現在のところよくわからない。おそらく未整理のまま、うやむやになってしまったのではなかろうかと想像されるだけである。