祠堂金の最後

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善光寺祠堂金は、前記のように正徳四年(一七一四)大勧進慶運が金堂建立の残金をもって設定したといわれ、享保ごろから貸し出しがおこなわれている。貸しつけ対象は寺領民であって、これは最後まで変わっていない。貸しつけ金利ははじめ年利一割五分、明和ごろ一割二分となり、文化九年(一八一二)には一割に下げられた。以後、年利一割ときまっていたが、安政二年(一八五五)に古貸しつけの改券にあたって、古貸しつけの分はすべて年利五分および無利子とした。

 祠堂金元本は、信徒よりの寄進金をもとにし、この元本は正徳四年から嘉永五年(一八五二)までに累計五四四八両であった(表6)。この元本は文政以降、弘化までのあいだにもっとも増加しているが、これはこの期にもっとも参詣者が多かったことを示しているのであろう。そのほか、信徒の寄進金は直接本坊(大勧進)へは納められず、寺内の各院坊祠堂金の合計は、天明二年(一七八二)現在で七〇四四両であり、そのうち二七九三両は大勧進が預かって、本坊祠堂金にまぜて貸しだしていた(表7)。その利子は、毎年十二月末、「利寄せ」をおこなって出資の院坊に配分された。この院坊出資金は、天保ごろからほとんど大勧進へは集まらなくなった。そのほか、種々の金を祠堂金に委託した分がある。大門町伝馬金・伊勢太々講金(だいだいこうきん)などの公共的な資金のほか、大勧進住職の私金が預け金となっている場合もあった。この預け金については、住職退院後も、その人またはその後継者が債権者であった。この預かり金は、幕末に六〇〇〇~七〇〇〇両であったが、実質的には借財と同じ性格のものとなり、大勧進はその処置に苦しみ、多くは強いて利下げにしてもらった。預金利子は最高一割であった。

 この預金はかなり信用されていて、商人などで自発的に預金するものもあったようであるが、すでに文政ごろから利子支払いが円滑にいかないようになっている。元本および預金の帳尻は天保八年(一八三七)、一万八五六〇両に達したが、貸しつけ金は文政の九八一六両を最高として、それ以上伸びなかった(表10)。しかも貸しつけ金のなかには、多くの焦げつきが生じ、天保十四年にはついに三五四〇両を貸しつぶれとして除帳し、ついで、嘉永七年までにさらに三一二九両が貸しつぶれになり、幕末には三千余両の貸しつけ金を残すのみとなった。しかも、これとても大部分が回収不能のもので、ついに安政二年には古貸しつけの全部を年五分利、または無利子とせざるをえなくなった。それでもなお元金上納は年三〇~四〇両にすぎず、万延以後は年二五両以下になってしまった(表12)。利子収入も年間四〇両くらいで、正徳以来、二万両に近い元金をつぎこんで、その元本の大部分は貸しつぶれ、または回収不能、利子収入および元本回収あわせて年六〇両そこそこというありさまであった。文久三年(一八六三)にいたって起死回生を策して、月一割の短期高利貸しつけを計画したが、実行されなかったようである。

 以上のような失敗に終わった主な原因は、寺自身が領民にたいして断固たる態度を取りえなかったことだろう。確実な不動産担保はとってあっても、所有者が没落すると、それは不当に安い価格(だいたい借用金の半額)にたたかれるのが習慣となった。また、証文どおりに保証人から金を取りたてた例はない。

 ことに、たび重なる火災は貸しつぶれの危険をもっとも大きくした。弘化四年(一八四七)の善光寺大地震のときなどは、町中丸焼けになり、人口わずか八千人の小領地で千数百人の死者を出した。町年寄藤井茂右衛門家のごときは、稼業の酒造道具の焼失はもちろん、一家全滅して少年一人残っただけである。この少年は、家を復興したいとして、親類連署で「祠堂金利子御免、長年賦」を願いでている。この場合、領主としては、その願いを許さぬわけにはいかず、屋敷地や田畑を取りあげて少年を路頭にほうりだすということはできなかったと思われる。これと同じような例はほかにもいくつもあげることができる。困窮した領民が、「ここで祠堂金利子を勘弁してもらわねば、御百姓(善光寺町の大屋はすべて身分は百姓である)が一軒つぶれてしまう」と泣きついたとき、つぶれてもかまわぬとはいえない弱味があった。領民のほうもその点をよく心得ていて、なかには故意にそれにつけこんだものもあるようである。つぶれた人の財産の取得者は、借用祠堂金半金上納の習慣があった。このようにして、ついに祠堂金借用者は、元金は返さないのが当然で、利子を年五分も払えば大威張りというような実情になってしまったのだと考えられる。

 善光寺は祠堂金貸しつけによって仁治(じんち)をおこなうつもりはなかった。祠堂金は、あくまでその利子で寄進者のために法会(ほうえ)を営んだり、常夜灯をともしたりすべきものである。しかし、結果的には善光寺は祠堂金を領民に貸与してその生計を助けるという結果になったようである。そして、好むと好まざるとにかかわらず、このような「仁治」に追いやられたのは、封建領主としての必然的な運命のひとつであったと思われる。