一般に、近世に町方(まちかた)(都市)が在方(ざいかた)(農村)とくらべて顕著に異なる点のひとつとして、町方には借地・借家が多いということがある。大勧進文書や善光寺領の町人史料では、「大家(おおや)(または持地)」「地借(じがり)(または借地)」「店(たな)(または店借、借家)」という区分が用いられる。大家(持地)は、貸家をもっているかどうかには関係なく、自分の屋敷地に自分の家があるものをいう。地借(借地)は借地してそこに自分の家をもっている借地人、店(店借・借家)は借家人である。なお、店には表通りに面した表店と裏店とがあり(ときにはその中間の中店も出てくる)、格のちがいから町で祭礼費などを取りたてるときにも差がつく。
後期の例になるが、嘉永二年(一八四九)の善光寺八町における大家・地借・店別の軒数は、表3-(1)のとおりであった。全一〇一一軒のうち、大家四四四軒(四四パーセント)、地借二七〇軒(二七パーセント)、店二九七軒(二九パーセント)である。地借(借地人)と店(借家人)とで五六パーセントという多数を占めている。それから四年後の嘉永六年の場合は、表3-(2)のようであった。大家数はほとんど変わらず四四五軒であるが、地借・店借の軒数が一変していて、全一一三七軒のうち、大家四四五軒(三九パーセント)、地借一七九軒(一六パーセント)、店借五一三軒(四五パーセント)となっている。
わずか四年間で地借・店借の軒数がこれほど違っているのは、ひとつには、どうやら分類基準と実態とがうまく対応せず、どちらに分ければよいかがあいまいで、四年前には地借に数えたものを今度は店借に数えるといったことがあったためと思われる。地借が大門町で二三軒からゼロに、後町でも九軒からゼロに変わっていることなどは、そうとしか考えられない。しかし、いまひとつ、わずか四年間のあいだにも、土地と家屋の売買や貸し借りがさかんに進行したという面も見のがせないと思われる。
まず、屋敷の譲渡(売買)による土地・家屋所持者の異動、つまり大家の異動は少なくなかった。屋敷譲渡には所定の様式の証文を作成する。最初に町検帳(三章四節二項参照)の該当屋敷地の図面を明細な寸法入りでかかげ、その図中に町検帳の御高年貢とその屋敷地で負う「小被官(こひかん)」「御伝馬(おてんま)三ヶ月」といった役儀を明記する。また本文中に、譲渡値段や、年貢はいつからどれほど上納するかなどが記される。屋敷地を分割して売買するときには、屋敷地全体の図面を詳しく書いて分割地を朱引きで示し、御高のうちどれだけの分割高であるかを明記し、当人のほか請人(うけにん)として親類惣代と組合(五人組)全員が連判する、という証文形態がふつうである。
善光寺八町の屋敷所持者の異動を示すよい史料が見あたらないので、後町(妻科村後町組)の鈴木八兵衛が書きとめた「見聞録」(『旧信濃国善光寺平豪農 大鈴木家文書』、以下『大鈴木家文書』と略記)を整理してみると、八兵衛の住む後町については四二屋敷の売買が記録されている。同じ屋敷が二度三度と売買されることもあるので、延べ五六件の売買である。善光寺八町の記録は少ないが、大門町をみると七屋敷、九件の売買が記されている。江戸前期から寛政年間(一七八九~一八〇一)ごろまでの記録であるが、他村や遠隔地からの転入をふくむ大家の異動の多さをうかがい知ることができる。
地借・店借にあたっても所定の様式による証文が取りかわされる。一例として借地証文をみよう(『中沢総二文書』長野市博寄託)。
借地証文の事
一貴殿御地面表間口三間二尺五寸、奥行八間のところ、当卯(う)二月二日より来たる申(さる)二月二日まで、一ヶ年地代金五両也(なり)相定め、我等借り請けいたし家作候ところ、実正(じつしょう)に御座候、然(しか)る上は、右店に差し置き候借家人身分の儀はもちろん、如何様(いかよう)の異変出来(しゅったい)候とも、拙者引き請け急度埒(きっとらち)あけ、貴殿ならびに御組合へ少しも御苦労相掛け申すまじく候、その上、万一諸入用相掛かり候ともこれまた相違なく差し出(いだ)し申すべく候、
一御公儀様御法度(はっと)の儀は申し上ぐるに及ばず、右場所において当所御作法に相ふれ候儀、一切いたさせ申まじく候、
一御定めのうち地面御入用候わば、御断わり次第家作引き払い御渡し申すべく候、もし勝手をもって家作引き払い候節は、地代金残らず相済ませ申すべく候、
一御定めの日限相延ばし候とも、貴殿御地面借り受け置き候うちは、我等請人(うけにん)相違御座なく候間、この証文相用いならるべく候、
右の通り何にても異儀申すまじく候、後日のため借地証文よって件(くだん)の如し、
安政二乙卯(きのとう)年二月 大門町 借主 式右衛門印
組合受人 伝兵衛印
中沢与左衛門殿 同断 弥助印
この借地証文は、期間は安政二年卯年から六年後の申年まで、ただし延長もありうるということで、一ヵ年五両の地代金で借りうけ、その借地に家作し、これを貸家として店借人に貸しつけるというものである。したがってこの屋敷地は、土地の借り主を主体にすれば地借、家作の借家人を主体にすれば店借となる。さきに地借・店借の数値変動は分類の不明確さも一因としたであろうとしたのは、このようなケースが存在することによる。また、店借証文は家主と借家人とのあいだで貸家、年限、家賃を明記して取りかわされる。店借・地借証文の請人は二人必要とした。
善光寺八町の町年寄が店借・地借証文を改めた「町々店并(ならびに)借地証文改帳」(中沢総二文書)がある。たとえば嘉永五年(一八五二)には、町年寄中沢平作が、桜小路(桜枝町)を二月二十日、後町(東後町)・新町・岩石町を二十一日、横町を二十三日、西町を二十四・二十五両日、東町を二十六日、大門町を二十八日に改めている。なお、同年の帳面にはメモ書きがあって、嘉永二年には町年寄の西条氏が、同四年には同じく藤井氏がやはり二月に改めにまわっていることが知られる。改めが二月に施行されるのは、二月二日が奉公人の出替わり日であることと関係していよう。
帳面は証文の要点を記載しており、店借・借地の例を嘉永五年の桜小路からあげると、左のようである。
小右衛門家代 一要五郎店 利兵衛
上松村昌禅寺 新町 善助
金壱両弐朱 西之門町 定八
一安兵衛借地 弥吉
念仏寺村臥雲院 東之門町 徳左衛門
当子年より来巳年迄年季 壱ヶ年金壱両壱分弐朱 東町 助七
銀四匁五分
上段の店借証文の場合、借り主は利兵衛でその旦那寺は上松村(上松)昌禅寺、要五郎の所持する貸店で小右衛門が家代(家主、差配人)をつとめている。家賃は年に一両二朱、請人は善助・定八である。下段の借地証文の場合は、借り主は弥吉、安兵衛の持ち地でかれが貸し手である。弥吉の旦那寺は念仏寺村(中条村)の臥雲院、借地期間は当年から六ヵ年季、地代は毎年金一両一分二朱と銀四匁(もんめ)五分(ふん)の定めであった。
この帳によって、それぞれの年の二月段階に作成されている店借・地借証文の件数が知られ、表4のようである。証文は毎年更新されるが、年々、おびただしい店借・借家証文が取りかわされている。善光寺町における住民の流動性はきわめて高かったといえよう。
この帳では店借・借家とも借り主がどこから来た人かは書かれていないが、旦那寺に近い町村であるという推測はできる。旦那寺は、善光寺町とその近くの村々(裾花川・浅川・犀川各扇状地など)の寺が多数を占めているけれども、離れた町村の寺院も少なくない。嘉永五年帳のなかから旦那寺が遠方にある店借・借家人を取りだしてみると、表5のとおりで、計一四八人は同年の店借・借家証文総数五六八人のうち二六パーセントにあたる。その他の七四パーセントの人びとは、表示以外の現市域の村々から移ってきているわけである。
表5からわかることは、つぎのような点であろう。①旦那寺が北信四郡以外には他郡にも他国にも皆無であること(証文作成のさい善光寺町界隈(かいわい)の寺院に寺替えした可能性がないではないが、店借・借地ともかぎられた年季期間なので、寺替えがあったとしてもそう多かったとは思われない)。②北信四郡のうちでも更級・埴科両郡は現市域の村々のみにかぎられており、とくに遠い地域からきている人びとは水内郡と高井郡の村々で、西部山中と千曲川下流方面の村々である(山中に目だって多いのは、五年前の善光寺大地震による山中の深刻な被災が影響していよう)。
江戸後期の店借・地借人の流入には右のような傾向がみられるが、ここで想起されるのは江戸前期に善光寺町に集住した人びとの出身地のことである。貞享(じょうきょう)四年(一六八七)提出の宗門改め一紙証文のうち現存する九一七通(大勧進蔵)を分析した結果(『長野市史考』)によると、表6のようである。現市域の町村の出身者が六六・一パーセント、これに市域外の水内・高井・更級・埴科四郡の町村を加えると八四・九パーセントにのぼる。北信四郡からの移住者によって善光寺町の骨格が整ってきたといってよい数値であろう。そして、四郡のなかの遠隔地では、水内郡ついで高井郡からが多く、更級・埴科両郡からはわずかであった。ただし、貞享四年には、比率が小さいとはいえ東・中・南信や他国からの移住があり、ことに他国から一〇パーセントほども移ってきているのは近世前期の都市形成期の特色とすべきであろうが、基本的には嘉永五年の店借・借地人の出身地との共通性が大きいといえよう。
このように、善光寺八町の戸口増大をもたらした人びとの主要な供給地は、善光寺町の近在をはじめとする水内・高井両郡の村々であった。おそらく、同じ地域が善光寺町の主要な市場圏・経済圏でもあったと思われる。このことは近世前期・後期を通じて指摘できることである。ただ、前・中期の流入者は土地と家屋を入手して大家として定着できる可能性が高かったとみられるのにたいして、後期の流入者は多くが店借・地借であった。町民の下層を構成する人びとが中心で、定着することが少なく、流出入を重ねる浮動性・流動性をまぬがれない実情であったと考えられる。