善光寺諸町では、所持地の年貢負担のほかに、屋敷にかかる役を負担した。役の筆頭は大被官(ひかん)役である(三章三節参照)。大被官は、領主である両寺(大勧進・大本願)の代官その他の寺役人(寺侍)の下に置かれ、町民身分のまま寺役人を補佐して寺役を勤仕するが、もとは領民の有力者の屋敷に課された屋敷役である。大被官は、「両寺に事ある時、或は三日(さんじつ)(朔日(ついたち)・十五日・廿八日)等に、帯刀して両寺に出頭し、来客の応接等をなし、開帳・出開帳何事にも肝煎(きもいり)する役にて、寺役人の助勢を為(な)し、相当に町内に勢力あり」(『長野市史』)という存在であった。定員は大勧進付・大本願付各一〇人である。「大勧進日記」(大勧進蔵)の残る元禄年間以降、正月朔日の歳賀をはじめ五節句などにも、三寺中についで大被官が御礼(表敬)している。宗門帳も一般の町方宗門帳とは別に、被官中宗門帳に載せられる。
大被官役屋敷を買いとった町民はおのずと大被官となるが、職掌上、町民よりはむしろ支配者に数えてよいような実質を帯びる。元禄三年(一六九〇)大門町と東之門町・横町など四町との市場紛争が起こったときに、東之門町に住む大被官二人が訴訟文書に加わるよう求められ、大被官身分であるから連判はできないと拒否したところ、四町の町民から村八分をうけた(『長野市史考』)。町内に住む一町民としての側面と、支配者組織の一員である側面とを一身にもつ存在だったわけであるが、「身代(しんたい)をよくしたるものは、其(その)役屋敷を買ひて、大被官となりたがるものなり」(『長野市史』)と、一種の名誉職としてその権威を手に入れようとするものが多かった。なお、大被官の寺役勤仕は、屋敷役としての勤めであるから無給であり、ほかになんらかの家業を営む。
善光寺町の政治組織としては、初期から町々に肝煎(きもいり)(のち庄屋)がおり、寛永期の代官と町民との紛争のあと寛永十七年(一六四〇)に町々肝煎の上に八町をまとめる町年寄が置かれる。元禄ごろには、寺役人のもとに、町年寄-町々の庄屋-同じく組頭-一般町民という上下組織が整えられている。町年寄は領主の任命、庄屋・組頭は基本的には町民の選任によるが、これらは町政上の町役人であって、屋敷役とはかかわりがない。
町々の屋敷役には、大別すれば寺役と伝馬(てんま)役とがある。寺役は善光寺両寺に奉仕する役で、その頂点にあるのが大被官であるが、このほかに刀被官・小被官・御山見役・御書役・男女役・十日役などと、職人に課される鍛冶(かじ)役・木挽(こびき)役・御畳役・大工役・桶屋(おけや)役・檜物(ひもの)役・小竹役などがあった。寺役のうちの刀被官は大被官につぐ役で、両寺住職他出のとき帯刀して前後警固の任にあたり、また役僧・役人が江戸・松代などへ出向するときにも行列の後尾を固める。小被官は、両寺の種々の用務にしたがうもので、順番に両寺に詰め、毎夜二人ずつ泊まり番をしたり、使者・使僧が出向するさいに行列の前面を警固したりする。御山見役は旭山・大峯(おおみね)山など領主山の見回り役、十日役は年間に一〇日勤仕する(『長野市史』・『長野市史考』、以下も両書によるところが多い)。
いま一種の伝馬役は、善光寺町の宿駅としての仕事に勤仕するもので、馬を出す伝馬役(馬役)と人足のみを出す歩行(かち)役とがあった(三章・七章参照)。
これらの屋敷役がいつごろから設定されたものかは確定できない。しかし、伝馬役・歩行役は、宿駅に不可欠なものなので、少なくとも善光寺宿が公認された慶長十六年(一六一一)までには定められていたにちがいない。寛永の代官・町民争論で、大勧進代官を相手どった寛永十六年(一六三九)の下大門町訴状は、「家が退転して四百軒ほどに減少したうえ、代官が寺の被官役ばかりを増すため、伝馬役は馬数四九匹、歩行役四二人に減ってしまっている」と非難している。これに反論した代官は、「屋敷は一軒もつぶしていない。西・大門両町で馬役七一軒、歩行役五五軒半、あわせて一二六軒半で、両寺三代以前から只今まで役儀を勤めてきている。そのほか職人はたくさんおり、前々からその職役をしてきている」といっている。寛永当時に宿駅の役はもとより被官役・職人役などの寺役も存在していたことがわかる。「両寺三代以前」からとする三代以前がいつのことかは不分明だが、寺役も寛永以前の時期から、おそらく宿駅の役とほぼ同じ時期から定められていたのであろう。
屋敷と役との関係がよくわかるのは、天和(てんな)三年(一六八三)の検地帳である。領内総検地がおこなわれ、町方の検地帳は「町検御改帳」(以下、町検帳と略記)などと表題され、屋敷図面を記すものである。大門町(『県史』⑦四四六)と後町(『市誌』⑬一七六)の町検帳から抜いてみると、各屋敷ごとにつぎのように記される。
同じ天和三年に「名寄(なよせ)御改帳」もあわせて作成された。これは左のように記される(西之門町 藤井一章蔵)。
一屋敷御年貢籾二石四斗二升八合 吉左衛門
但し 長野畑共
右ハ下ノ御寺様入
人数十一人 上六人下五人
馬 一疋
この御改め帳により各屋敷の年貢籾高が決定され、「下ノ御寺様」(大本願)といった上納先も決定した。後年の町検帳では、屋敷図のなかに年貢籾高も記入されるようになり、屋敷の分割譲渡のさいにも図面で分割の仕方を示すとともに、図面内にそれぞれの年貢籾高が明記されることになる。
この天和三年、大門町には寺役は小被官役二軒があるだけで、ほかは伝馬役である。伝馬役には、一軒役(四二軒)・半軒役(一〇軒)・七分役(一軒)・四半軒役(二軒)が存在した。四半軒役は四分の一軒分である。町年寄の三人(彦右衛門・清右衛門・源左衛門)の屋敷には役がない。屋敷役の大小は表間口にもとづいていると思われるが、基準はかならずしも明確でない。表間口五間以上はみな一軒役であるが、ひとりだけは五間一尺余ありながら七分役である。半軒役は表間口五間未満の四間台から二間台までであるが、二間台の二軒は四半軒役となっている。おそらく当初の役屋敷が分割して譲渡されてきた経緯によるものであろう。
伝馬役一軒役は一二ヵ月勤役であるのにたいして、半軒役は六ヵ月分、四半軒役なら三ヵ月分勤役となる。こうした役伝馬は屋敷の細分化がすすむにつれて細かくなり、一ヵ月半、一ヵ月勤役まであらわれる。江戸後期の文政九年(一八二六)には大門町の軒数(大家の数)が八二軒に増えているが、その伝馬役負担は表7のとおり細分化されている。これを一軒役(一二ヵ月勤役)に数えなおすと、伝馬役五〇軒分となる。役定数五〇軒であったものが屋敷の分割により細分化したのであるが、役が分割されても総量は動かない。これは他の諸役でも同様である。
こうして屋敷役が細分化する反面で、町検帳上の幾筆もの屋敷を買い集めて所持することにより、ひとりでいろいろの屋敷役を負う場合も出てくる。一例として、西之門町と阿弥陀院町の角地に数筆の屋敷を取得して居宅と酒造場・店舗を構えた吉野屋藤井家をみると、伝馬役二軒、歩行役を一軒と一一ヵ月、大本願の小被官二軒という複数の役を負っていた(西之門町 藤井一章蔵)。
屋敷細分化のはなはだしい進行とその反面での屋敷集積とは、つまり江戸後期に顕著になる町民の階層分化を指ししめすものにほかならない。そのさい、細分化した屋敷といえどもそれを所持し役を負うものは大家(おおや)であるが、その大家から地借(じがり)・店借(たながり)している、より下層の町民が増大していたことをあわせてみることが必要である。上層の大家は、たとえば伝馬役・歩行役をじっさいには役代や地借・店借人にやらせることになる。なお、小被官役や職人役にも役代に頼んで勤めさせる例があった。
その文政九年における善光寺八町および両御門前(横沢町・立町)の屋敷役数は、表8のようである。宿駅役のうち伝馬役は、宿駅のある大門町および西町(西之門町をふくむ)が負い、歩行役は八町のなかの西町(阿弥陀院町をふくむ)・東町(東之門町をふくむ)・横町・後町・伊勢町・岩石町で負っている。また、寺役のうちの小被官役は、桜小路・岩石町および御門前の横沢町に多いが、八町のすべてが少しずつながら負担している。職人役を負うものも、町々に分散して居住していた。
なお、在方の村々には「在郷役」が課せられた。箱清水村六軒、北之門町(北之門町が消滅してからも役は箱清水村に残る)二軒、七瀬村一七軒、平柴村一一軒がそれで、両寺へ出勤して御飯米を籾から精米することが主要な仕事であった。
屋敷役はいずれも、ほんらいは労働力を提供するものであったが、江戸中期以降幕末期へとくだるにつれて、寺役でも伝馬役・歩行役あるいは職人諸役でも、代金納(役料)に変わるものが多かった。その役料で、両寺なり大門町の宿駅問屋なりが、人あるいは馬子(まご)つきの馬を雇って使うのである。文化五年(一八〇八)の役料は、小被官が年に銀一五匁(約金一分)、刀被官が銀二八匁一分余(約金二分)であった。江戸後期にはたいていの屋敷役が代金納化された。ただ、御門前である横沢町・立町の小被官役・刀被官役・門前役・男女役・十日役などの屋敷役は、代金納をまじえつつも長く労役負担として存続した。