町民の村方所持地と妻科村大入作組

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善光寺八町の町民は、町内の自分の屋敷のほかに、在方村々にも土地を所持しているものが少なくなかった。善光寺領の四ヵ村の耕地は、古くから八町町民が出作(でさく・でづくり)(村がわからいえば入作(いりさく))することを前提とした方式で領主(大勧進)によって掌握されていた。

 天保三年(一八三二)に大勧進代官が作成した四ヵ村の「御年貢勘定目録」(大勧進蔵)をみると、表9のとおりである。村高から永荒引き分や大本願に年貢を納める分を控除した残高は、四ヵ村とも「居村(いむら)分」「出作分」に分けられている。なお、ほかに七瀬村には「半成田分」「織部(おりべ)田分」があり、長野村には枝郷の「狐池」分がある。このうち「居村分」は村の住民の所持地であるべき田畑であり、これにたいして「出作分」は八町町民の出作地にあてるべき田畑である(三章四節・五節参照)。


表9 天保3年(1832)の善光寺領4ヵ村年貢勘定目録

 このように村の田畑を「居村分」と「出作分」に分けて掌握する方式は、いつ成立したものか判明しないが、正徳(しょうとく)三年(一七一三)に大勧進役所が作成した四ヵ村の「居村・出作御高辻御改帳」(大勧進蔵)では、すでに確立している。村の高辻を居村高・出作高に分けるその数値も、天保段階の数値とすでに同一である(わずかなずれがあるが、これは永荒引き高の増減などによる)。そしてこれは、これより以前から長く用いられてきていた居村高・出作高の数値を正徳三年に再確認したものであった。「居村高」のなかに村外のものの所持地が、また「出作高」に自村民の所持地が入りまじっていることが、正徳以前からの方式であることを物語る。

 もともと四ヵ村の「出作分」は善光寺八町町民の所持地であったのであるが、町民の所持地は「出作分」をこえて増大した。正徳三年の七瀬村における出作をみると、表10のようである。一割たらずは松代領妻科村の枝郷新田町・西後町などのものの出作地になっているが、出作民の圧倒的多数は大門町・後町をはじめ八町町民である。その出作地は、「出作高」で一〇〇パーセント近くを占めるのは当然としても、「居村高」の四七パーセント、「織部田高」の一〇〇パーセント、「半成田高」の六〇パーセントを占める。七瀬村高辻全体では六〇パーセントが出作地にかわっているのである。こうした町民出作地の増加は、他の寺領三ヵ村でもほぼ同様であった。


表10 正徳3年(1713)善光寺八町町民などの七瀬村への出作

 表10により出作地の所持者のようすをみると、多数を占めるのはごく零細高の所持者であるが、大きな高の所持者もいることがわかる。後者には、大門町の与左衛門の計三七石余、後町長左衛門の計三五石余、大門町喜兵衛の計二七石余などがみられる。この正徳年間をふくむ元禄(一六八八~一七〇四)から、享保(きょうほう)(一七一六~三六)にかけてのころは、信州あるいは北信濃で、自他村に所持地を拡大して地主として大をなすものが登場してくる時期である。右のような大きな高の所持者は、町民にして地主化を志向しつつある存在といえよう。

 善光寺八町の町民は、寺領四ヵ村以外の他領村々にも所持地をもち、しだいに拡大した。なかでも早くから田畑を有したのは松代領妻科村で、その出作(入作)人はまとめて大入作組とよばれた。天保(てんぽう)四年(一八三三)現在、三八人いて、高一六〇石三斗余を所持している。妻科村の村役人と別に組頭が置かれた。組頭は代々阿弥陀院町(栄町)の麻屋茂左衛門が就任したといわれている(『長野市史』)が、明和八年(一七七一)三月にそれまでの組頭の大門町宇右衛門が老衰、引退を組じゅうに願いでて、跡役に西後町の鈴木八兵衛が就任しているから(『大鈴木家文書』)、かならずしも固定したものではなかった。

 大入作組は、松代藩が村々に課する郡役(こおりやく)(用治水・道路などの普請労役)をすべて免除され、かわりに大名行列の善光寺宿休泊を助け、とくに佐渡奉行と佐渡御金荷一行の応対を一手に引きうけた(『長野市史』)。このほか、藩主や奥方の善光寺参詣一行をはじめ、松代家中の善光寺町往来にあたっての休泊も引きうけた。これらのうち佐渡奉行・佐州御金荷宰領一行は、松代領内では矢代宿(更埴市)に宿泊し、大入作組で昼休みするのを例とした。天明三年(一七八三)七月の場合、「佐州御運上金附御帳箱御宰領仙田小左衛門様・高田六郎兵衛様」「同御運上御金御宰領高野忠左衛門様・本間十太夫様」とが、別々に七月二日と三日に大入作組で昼休みをした。大入作組では一行上下五〇人分の昼飯を用意して供応し、その賄い米(格式により上白米・中白米・下白米を使いわける)代金と薪代金を組頭八兵衛が藩役所に請求している(災害史料③)。

 寛政九年(一七九七)四月、大入作組の組頭茂左衛門と惣代三人は、郡奉行所に願書を差しだした。「前々善光寺町入作高一六〇石余につき、諸役御免、年貢は本郷と引き分けて御代官へ直(じき)上納、かつ組頭名目のお許しをいただいている。しかるところ、北国諸大名や佐州御奉行・運上御金宰領のお出迎えのさい、組頭名目では理解が得られず差し支える。よって、今年から年貢籾一〇俵ずつを増(まし)上納することとし、名主名義を用いるお許しをいただきたい」という趣意であった。事実上の分村願いである。郡奉行は「他村入作で名主役の類例もあり、支障はないので、名主役名目を許可したい」との伺い書をつけて家老に上申して認められた(災害史料⑥)。

 このように、松代領妻科村のなかの北国街道に接する西後町には、善光寺町民も多く移り住み、早くから善光寺町つづきの町並みを形成した。寛文(かんぶん)十三年(一六七三)、松代藩郡奉行は文書を発給し、「村継ぎの人足・伝馬(てんま)繁多につき、後町御高三八石一斗六升九合の年貢ならびに木藁(きわら)を金納とし、角役(かどやく)を免除する。諸大名・公儀御使者通行のときは前々どおりつとめよ」と定めた(『長野市史』)。妻科村後町組は後期には右にみたように事実上分村して後町村と称し、年貢金の直上納をはじめ妻科村とは別に活動した。