火災と火消し

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火災がおきやすく、おきると家並みが密集しているために大火になりがちだというのは、都市の宿命である。善光寺町ではひんぱんに火災が発生し、大火も多かった。

 江戸時代の長野市域の大火のうち、当時の善光寺町域にかかわるものは表11のようである。江戸前期の一七世紀は史料不足でこれですべてではないと思われるが、家並みがまだ密集していなかったから、じっさいにも少なかったのかもしれない。善光寺町の町並みが発達してきた中期の一八世紀には、表のとおり大火が続発した。最大の火災は寛延四年(宝暦元年、一七五一)におきている。寺・土蔵をふくめて一四七八軒を焼き、「焼け残りしは、上西之門町・横沢町・荒町・桜小路西側、衆徒、東の門町の寛慶寺近辺のみなり」という「空前の大火災」であった(『長野市史』)。その大火から復興途上の宝暦十年にも、あいついで数百軒を焼く大火が発生している。これにたいして、江戸後期の一九世紀には大火は減少している。これは、善光寺領主役所ならびに町々の防火策がそれなりに整ってきた結果とみてよいであろう。


表11 善光寺町の主な火災および地震

 善光寺大勧進役所が元禄以降、町々村々へ出した領内法度(はっと)には、防火にかかわる箇条が冒頭にかかげられている。寛政元年(一七八九)の法度でいえば、左の箇条である。

一火の用心の儀、毎度委細仰せ渡され候通り、急度(きっと)相守るべく候、尤(もっと)も自身番どもは夜半過ぎより別して大切に相勤むべく候こと。

一町々番所、水溜め桶(ためおけ)・番(つがい)手桶は申すに及ばず、そのほか火消し道具損じ候わば、早速拵(こしら)え申すべきこと

一町々火消し鳶(とび)のものどもへ、委細毎度仰せ付けられ候通り、油断つかまつるまじく候旨、申し含むべく候こと

 この法度でうかがい知れることはこうである。善光寺の町々には番所がもうけられていた。そこへ詰める自身番は火の用心につとめ、とくに夜半過ぎには大切に勤めよとあるから、拍子木(ひょうしぎ)を打ちながら火の用心の声をかけて回る姿もみられたのであろう。番所には、出火時にそなえる防火用水が水溜め桶にたくわえられ、火消し道具も用意されていた。ほかに町々に火消しの人的組織があり、所定の道具をもって消火作業に従事することになっていた。当時、火災が広がるのを防ぐには、火消し役をになう町民のものが水をかけて消すいっぽう、火勢のゆくえにある家屋を引きつぶして火の手を断ちきる。これを担当するのは主として鳶(とび)職をふくむ大工職の人たちであった。こうした消火体制は宝暦十年に定められ、安永十年(一七八一)に改革された(三章六節二項参照)。

 善光寺諸町には、どのような火消し道具と火消し役が置かれていたか。宝暦十年に町々が大勧進役所に提出した火消し道具書上帳(大勧進蔵)から、大門町と東町をみると表12のようである。


表12 宝暦10年(1760)善光寺諸町の火消し道具

 町によって相違がある。大門町では、「水」一二人・一二荷(か)、水籠(みずかご)九個・九人、柄杓(ひしゃく)二五本・二五人、それと番所に保管するらしい釣瓶(つるべ)二つが、消火用の水にかかわる。「水」というのは一荷(か)ずつとあるから、水桶二つを天秤棒(てんびんぼう)でかつぐものであろうか。その水桶と水籠で水を運び、柄杓でかけるという消火作業になる。長鎌(なががま)三本とかけや・真縄(まなわ)(ロープ)は家屋を引きつぶすためのものであろう。大門町の水・水籠・柄杓・長鎌は、担当者が個人名できめられており、大家(おおや)だけでなく店(たな)借り人もふくむ。

 東町の場合には、水籠六六・柄杓四本・鳶六挺・手箕(てみ)一二とその人員が用意されているが、担当はそれぞれ個人でなく五人組単位できめられている。大門町にない鳶がみられるが、これは大門町にほとんど職人が住まず、東町には大工その他の職人が居住していたことによる。鳶職は家屋つぶしにあたるが、別に「駆けつけ鳶」一〇人も、これは個人名できめられていて駆けつける。

 鳶職のものをふくめて、大工職は火消し役を命じられている。天保四年(一八三三)正月、善光寺町大工棟梁(とうりょう)二人は大勧進役所に願書を出し、「大工職は先年火消し役を仰せつけられ、これまで棟梁が引き連れ、町年寄の指図のもとに活動してきたが、大工職には年々増減もあって掌握しにくいので、以後大工職の腰札(こしふだ)を頂戴するとともに、出火のさいも火消し役札(やくふだ)を渡しておいて到着の確認に用いたい」としている(『県史』⑦一二九四)。

 善光寺町の火災のときには、近隣の松代領・幕府領などの村々からも消火の応援に駆けつける。逆に、善光寺町の火消しが近隣村々の火災に出動することもおこなわれた。これは、村々のあいだで古くから当然のこととして慣行化してきている相互支援のひとつのあらわれといってよいが、善光寺を外護(げご)する立場にある松代藩も善光寺町の火災に出動した。宝永二年(一七〇五)に藩の町奉行は、「従来の善光寺町の火災への出動は基準があいまいだったので、松代八町の火消しの半分が出向くようにしたい」むねの伺いを提出した。家老は五月十二日にこれを裁可し、三人の町奉行に「善光寺出火の節、当所町人足八町半分、四町分召し連れ候様」と申し渡している(「家老日記」国立史料館蔵『松代真田家文書』)。なお、弘化三年(一八四六)中御所など四ヵ村は、「出火のさい善光寺町名主は壁笠・胸当(むねあて)・火事羽織・帯刀・石帯・野袴(のばかま)、組頭も壁笠・胸当・火事羽織・立付(たっつけ)・刀を着しているのに、当方はなにもない。三役人・頭立(かしらだち)には善光寺出火の節だけでも股引(ももひき)・法被(はっぴ)・胸当・壁笠を認めてほしい」と松代藩に訴えている(『県史』⑦一七七四)。町役人らのほか、町々の消防従事者も法被・股引などある程度そろった服装をしていたのではないかと思われる。

 消火組織を整備するいっぽう、火災の拡大を防ぐ重要な対策のひとつとして、家屋の改善がすすめられる。

 宝暦十年四月の大火のとき、燃えさかった火災が西之門町でとまった。同町の向かいあう惣左衛門・勘兵衛の二軒が「塗屋(ぬりや)」であったため、その南隣で消しとめられたのだという。同年六月の火災でも、塗屋が防火に功を奏した。こうした事実もあって同年五月、大勧進役所は町々へ申し渡しをおこなった。「今度類焼の分、成るべき筋合いのものは、今度何分にも塗屋につかまつるべきむね、仰せいだされ候、右様に相心得、間違いなく組下へ申し渡すべきむね、篤(とく)と申し渡し候、このたび(類焼を)逃れ候町々庄屋どもも呼びいだし、已後(いご)家作仕替え候わば、塗屋に仕立つべきむね申し渡す」(大勧進日記)。

 今度家を建てなおすときには、できるだけ塗屋にせよという申し渡しである。塗屋は、壁を厚く塗るほか、外面に出ている木質部も土砂で塗り、屋上も同様に土砂を塗ってその上に板を敷き石をもって圧定するものである。これ以後塗屋で家作するものには、金一〇両ずつを貸しあたえ、借用願いを出したものが数十件あって、いずれも認められている(『長野市史』)。

 この「塗屋」は、屋根を瓦葺(かわらぶ)きにかえることまでは求めていないらしいが、瓦屋根は当然防火に有効であり、この宝暦年間ごろにはすでに目抜き通りに瓦屋根が普及しはじめていた。ただし、大勧進・三寺中をはじめ、町々に草(萱(かや)・藁(わら))屋根、板屋根もまだまだたくさん存在したことは前記したとおりで、画期的に普及したのは弘化四年の善光寺地震を契機にしてであろう。

 なお、江戸の防火対策として、延焼をとめるための道路の拡幅や広場(広小路)の設置がなされたことはよく知られているが、善光寺町でも「御火除地(おひよけち)」がもうけられた。嘉永元年(一八四八)十一月、横沢町の仲七は、御慈悲御縋(すが)り願書を差しだした(横沢町区有)。仲七は組頭を勤め前年の善光寺地震から庄屋代を勤める身であったが、「去年中より御火除地仰せいだされ候、銘々御地替え等仰せ付けられ、各地所の儀その時々御伺い申し上げ、万端御差図をうけ取り計らい罷(まか)りあり候ところ」、仲七は伺いを出さず一存で替地の譲渡をきめたことを大勧進代官からとがめられたのである。「御火除地」の実態がわかる史料はないが、震災のあとに大勧進直属の横沢町で設置されたことは確かである。大勧進をはじめ善光寺建造物への類焼を防ぐ措置だったのであろう。

 防火・消火には水が不可欠だが、善光寺町の防火用水はどこから得たかといえば、農業用水に用いられてきている川と堰(せぎ)による。ほかに善光寺領には七池・七清水があり、七清水は善光寺町の周辺部に存在するが、七池のほうは善光寺町域にある井戸で、阿闍梨(あじゃり)池(本覚院)・花池(釈迦堂)・狐池(狐池)・無方池(長刀池、西町西方寺門前)・有方池(牛池、大門町広小路)・来魔(くるま)池(車池、桜小路)・鶴目池(後町)がそれである。この七池は良質の飲用水が得られる貴重な水源であったが、他の井戸とともに、近くの火事には消防用水としても利用されたにちがいない。しかし、じゅうぶんな水量のある消防用水は川と堰になる。堀切沢・湯福沢・鐘鋳(かない)川(堰)・北八幡(きたはちまん)川(堰)などとそこから分岐する数多くの引水路で、そのおおかたは現在でも町々に流れているものである。これらの農業用水は在方の用水組合村々が強固な水利権をもつが、町場での飲用水、炊事・洗濯などの生活用水、そして防火用水としての利用などは認められていた。

 町々で用水を無断利用したり汚染したりすれば大きな問題になる。寛政九年(一七九七)、東之門町の風呂屋が箱清水村の用水を無断取水し、見回りの水番に発覚して騒ぎとなった。東之門町は町内こぞって箱清水村の村役人・惣百姓に詫びをいれている(『県史』⑦一二四三)。また、文政四年(一八二一)、鐘鋳堰組合の惣代として松代領三輪村(三輪)・北高田村(古牧)・下越(しもごえ)村(吉田太田)の三人が、「大門町分横町太兵衛の下男、岩石町又治郎の下女が長谷越(はせこし)(走越、湯福沢が鐘鋳堰を越す箇所)付近に塵芥(じんかい)を運び捨てた」ことを、松代藩道橋奉行所の添簡(そえかん)をもって大勧進役所へ訴えでた。この訴訟は鐘鋳堰組合村々と善光寺八町との争論となったが、阿弥陀院町の茂左衛門と大門町の弥助が仲裁に入った結果、問題の走越近くの塵(ちり)捨て場は取りのぞき、新たに岩石町裏一ヵ所、東町武井裏一ヵ所、東之門町横山小路出先一ヵ所に塵芥捨て場をもうけることで妥結している(『市誌』⑬二〇三)。

 町場を流れる川・堰には通路の橋がかけられていたが、当初は木橋・土橋だったものが、江戸中期ごろ以降しだいに石橋にかけかえられている。長持ちさせることに加え、流れを汚さないことと火災時の類焼を防ぐことへの配慮もはたらいてのものであろう。たとえば、北国往還下後町の八幡川にかかる木橋は、享保二年(一七一七)八月、問御所村の菊屋長左衛門が施主となり、はじめて石橋にかけかえられた(「見聞録」『大鈴木家文書』)。この八幡川の石橋は、天保九年(一八三八)四月に奉加金を募って拡幅されている(「備忘録」同前書)。