町の救恤

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捨て子は在方の村々にもみられるが、善光寺町にはとくに多かった。捨てなければならなかった貧窮者と養育できる富裕者とが、ともに在方より町場に多かったためであろう。善光寺大勧進代官の『今井家文書』(県立歴史館蔵)に、天保飢饉(ききん)時の捨て子史料がある(表13)。


表13 天保5年(1834)~9年の善光寺町の捨て子

 拾い主は庄屋とともに、大勧進役所へ届けでなければならない。表13の⑯の大門町嘉七家代の忠助は、親類・組合のものと連名で、つぎのように届けでている(『長野市史考』)。「昨四日夕五ッ時(午後八時ごろ)、私の門前へ何者かが産後日数もたっていない女子を置きざりにした。当人の行方をほうぼう探したがわからない。このうえ捨て主が知れなければ、私が引きうけ養育したい。この段をお届け申しあげる」。この届け出には、最初に知らされた大門町庄屋が相違ないむね奥書を加えている。この忠助は立てつづけにまた八月、門前に捨て子され(⑰)、ともにもらいうけたい人がいて渡している。

 捨て子は、庄屋・医師(青山仲庵(ちゅうあん))・被官などの門前・屋敷、村の番所など、確実に養育の手だてを講じてもらえそうなところに捨てられている例が多い。どうにも育てきれなくなった親が、せめても救ってもらえそうな人を選んで捨てたことが多かったと思われる。もっとも拾い主が富裕者ばかりだったわけではない。伊勢町孝右衛門が拾ったケース(⑥)は、赤ん坊は寒さしのぎに小綿入れを着せ古前掛に包まれていて親心を思わせるが、孝右衛門自身は極(ごく)難渋の身で、「助けて渇々(かつがつ)にでも育てたいが御助力を」と訴えている(『県史』⑦一二四八)。なお、まれには無情な放置もあり、箱清水村で行き倒れ人を葬る無縁堂の古井戸のなかに捨てられていた例があった(⑪)。たまたま死骸を葬りにいったものが見つけだしたが、衰弱していて二ヵ月後に死亡した。

 捨て子は拾い主や庄屋の責任で育てる人を確保し、病にかかっていれば医者にみせて医療をほどこす。手を尽くしても病死した場合は、領主役所に届ける。役所は死因に不審な点がないかどうかを確認する。左の弘化四年(一八四七)の史料は届け書の一例である(西之門町 藤井一章蔵)。

   恐れながら書付を以て御訴え申し上げ奉り候

去る午(うま)年(弘化三年)三月四日朝私宅表入口に捨て子これあり、その段御訴え申し上げ奉り候ところ、御検分の上大切に養育仕るべき旨仰せ渡され畏(かしこ)まり奉り候、然るところ横沢町定五郎店(たな)さゑ儀、幸い乳これある趣につき、預け置き養育仕り候ところ、去月中より病気にて勝(すぐ)れず罷(まか)りあり候につき、山崎養元老(医師)相頼み服薬いたさせ、なおまた当月八日より痘瘡(とうそう)(天然痘)相発し、金子三平老相頼み加減の薬相用い種々介抱仕り候得ども、養生相叶(あいかな)わず今暮れ六ッ時(午後六時ごろ)死去仕り候、恐れながらこの段御訴え申し上げ奉り候、以上、

     弘化四丁未(ひのとひつじ)十月十六日        藤井伊右衛門代 小兵衛

                              阿弥陀院町親類 茂左衛門

                              組頭      文次郎

       御役所(大勧進)

 善光寺町にかぎらず、捨て子を拾い主や庄屋、さらには町や村の責任で育てることは、領主からの処罰の有無以前に、町村共同体として当然の社会的救恤(きゅうじゅつ)であった。

 行き倒れ人への対応も、社会的救恤の一側面である。旅人が行き倒れ人になった場合、これを介抱し医療をほどこし、出身地がわかれば連絡をとり、遺骸の引き取り手がなければ埋葬する。善光寺参詣の旅人が群参する善光寺町では、ことに行き倒れ人が多かった。

 嘉永四年(一八五一)、石見(いわみ)国(島根県)の一八歳の金平は四九歳の母ゆみの心願をかなえさせるため、連れだって巡礼に出、北国筋の神社仏閣をめぐって善光寺にきた。六月十二日に念願の善光寺如来参詣をはたしたが、母は翌日病気で寝こみ、新町の町役人らが種々薬用手当てをほどこしたが、七月十三日に病死した。金平は新町役人とともにこれが病死に相違ないことを大勧進役所に届け出、その承認を得て埋葬した(『県史』⑦一二五六)。文久二年(一八六二)、加賀藩下役人の野尻久七郎ら三人は、江戸からきて八月十二日の七ッ半時(午後五時ごろ)大門町問屋三右衛門方に止宿したが、道中から不快を訴えていた久七郎は吐瀉(としゃ)(嘔吐(おうと)と下痢(げり))して倒れた。大門町の宿(しゅく)・町役人らは医師佐久間周碩(しゅうせき)・堀内道純(どうじゅん)を迎えて療養に手を尽くしたが、十三日明け七ッ時(午前四時ごろ)に絶命した。役所に届けたうえで、久七郎の宗旨が東本願寺派であったため、東町の康楽寺に頼み焼香と境内への仮埋葬をおこなった(『県史』⑦一二六一)。

 町の救恤活動は当然、町内の貧窮者救助にも向けられる。文化十年(一八一三)十月十三日の夜、米価高騰(こうとう)にたまりかねた大勢の窮迫町民らが穀屋・酒屋など富裕町民二三軒を打ちこわす騒動がおこった(『市誌』④一三章参照)。この騒動の直後、善光寺役所は前例のない御用金を富商一四人に出させ、その金三七〇両で買い入れた米を難民に支給した(『長野市史』)。また、これ以降、米価急騰のさいの貧民救恤に細心の方策を講じるようになる。大凶作の文政八年(一八二五)には飯山藩年貢米などを買いいれて穀屋に安売りさせた(『県史』⑦二〇二九)。天保飢饉のときにも大量の囲い米や買い入れ米を穀屋に放出し、安売りをおこなわせた。

 善光寺諸町では、これ以前に古くから、富裕町民は貧窮町民を救済するのが当然とする社会的通念が存在したが、やはり文化十年米騒動を契機として上層町民らが領主役所と協力しながら貧民救助策を進展させた。文政年間(一八一八~三〇)のはじめころ、善光寺八町は商家・職人から年々冥加籾(みょうがもみ)を差しだし、違作の手当てとして囲い穀したいと領主役所に願いでた。役所も受けいれ、寛慶寺西車坂下に社倉(しゃそう)を建て、年々新籾と入れかえてたくわえさせた(『長野市史』)。

 その町方の貯穀はいったん中絶したらしいが、天保二年(一八三一)領主役所は町家に、年々冥加籾を拠出して社倉に囲いこむよう求め、町々もすすんで囲い穀につとめた。凶作、米価騰貴が始まった天保三年十一月、二ヵ年の社倉積み入れ籾六〇〇俵を穀屋に貸しだし米穀安売りをおこなわせたが、穀屋から代金が返納されないままになっているあいだに、翌四年いっそう深刻な米穀難となった。同年九月、善光寺八町の庄屋は連名して、「御町年寄・御地割方両御役場」にたいして文書を提出した(『県史』⑦二〇三一)。このなかで右の六〇〇俵代金未回収のいきさつを書いたうえで、「がんらい右籾子(もみこ)の儀は、荒凶飢饉の節、お手充(てあて)として社倉へお積み立てと存じ候、(ところが)金掛りの者油断仕り穀屋どもより御返上致させず候ゆえ、このたび困窮に及び候段恐怖仕り候」と批判し、「この六〇〇俵分と今年の冥加籾とを至急積みいれるとともに、町方でも独自に置穀(囲い穀)をおこないたい。なお別に、極難渋人へはお慈悲を以てお救い銭を下されるように」と求めている。

 飢饉時の米穀救恤以外にも、さまざまな救助の形態と方法が存在したが、多くみられるのは金銭融通をはかるものである。これには大別して、各町々を単位として町内の貧窮民を救うものと、各町が連合する融通講、あるいは町々の有志による頼母子講(たのもしこう)・無尽(むじん)講がある。講には営業上の資金、一時金を融通するものが目につくが、各町ごとの「御廻し金」は、貧窮町民の救助にあてることを主体とした。

 「御廻し金」「貸し付け金」などとよばれる各町の融通金制度は、なんらかの原資を基金とし、これを必要とする人に低利で貸しつけ、回収しつつ長く運用するものである。西之門町にも以前からこの基金があり、嘉永六年(一八五三)の貸し付け金覚え帳(西之門町区有)をみると、一三人が金一両二分から銀九匁の範囲で借りている。零細金額なので、借り手はみな下層町民と考えられる。年八分(八パーセント)という低利であった(当時一般の金利は一割から一割二分程度)。ほとんど順調に回収されているが、滞った事例もある。西之門町の勝右衛門は、町内親類の松蔵が八百屋の跡目を継ぐのにかかる相続金二〇両を借りうけた。ところが、弘化四年(一八四七)の大地震で松蔵は死去し、親類一同も極難渋におちいり、返済不能となった。嘉永六年正月、勝右衛門は利子免除、元金を一〇ヵ年季返済とすることを認められた。以後、年々二両ずつを納めて完済している(西之門町区有)。

 町々が連合、協力する方法には無尽講・頼母子講によるものが多い。天保十五年(弘化元年、一八四四)六月、大門町・東之門町・横町・岩石町・東町・西之門町の代表二四人は、規定取りかわし書を定め、一二ヵ年継続する「六町融通講」を発足させた(西之門町区有)。目的は祇園(ぎおん)御祭礼の踊り番町が難渋する資金調達を助けることにあり、毎年当番町に金五〇両が落ちる仕法であった。頼母子講・無尽講には、町民有志が結ぶものもむろんあった。営業資金を調達しあうものが多いが、上層町民が資金を拠出して貧窮町民の救助にあてるものもあった。

 幕末の善光寺町では、木版印刷の銭札(ぜにさつ)が発行されている。「為替手形(かわせてがた)」と印刷され、一二文、二四文、三二文、四八文の四種がある。たとえば、その二四文札には「四枚にて当百(とうひゃく)(百文の天保通宝)に引き替え相渡し申すべく候」とあり、幕府通貨との兌換(だかん)性をもつ。通用期限が「子(ね)八月限り」とあり、この子年は元治(げんじ)元年(一八六四)と推定される。それぞれの裏面には引換所として、吉野屋伊右衛門・小妻屋長治郎・海老(えび)屋正右衛門・柳田屋忠兵衛・穀屋茂左衛門・美濃屋久七・三河(みかわ)屋庄左衛門・菱(ひし)屋伊助・鼠(ねずみ)屋磯五郎の九人の名前がある。いずれも善光寺町の有力商人で、つまり、この九人が発行主体(担保人)となって通貨価値を保証する紙幣であった(八十二文化財団『信州の紙幣』、坂田尚子「北信濃の藩札・町村札・商品札」)。

 開国後の幕末には、交易の拡大、物価の高騰のなかで、通貨閉塞(へいそく)、銭貨払底(ふってい)とよばれたような小額通貨の絶対的不足が生じて民衆を苦しめ、信州でも各地で不穏な動きがきざしていた。このため、町村で紙幣を発行するところが増し、善光寺町の有力町人も銭札の発行にふみきったのである。これもまた、上層町民による窮迫町民救恤のひとつのあらわれであった。