武田信玄が海津(かいず)城を築いたのは、永禄(えいろく)元年(一五五八)五月から同三年九月までのあいだで、北信支配の最重要拠点とした(『市誌』②)。天正(てんしょう)十年(一五八二)三月、武田氏をほろぼした織田信長は、森長可(ながよし)を北信四郡に入れ海津城に在城させた。同年六月、本能寺の変で長可が逃れて上杉景勝(かげかつ)がおさえ、海津城将には村上景国らをへて須田満親(すだみつちか)を置いた。慶長三年(一五九八)景勝は会津(福島県)へ去り、田丸直昌(ただまさ)が海津城に入る。ついで同五年森忠政、同八年松平忠輝、元和(げんな)二年(一六一六)松平忠昌(ただまさ)、同五年酒井忠勝とかわる。元和八年、真田信之(のぶゆき)が上田城から移って固定した(一章参照)。この間、森忠政は海津城を待城(まつしろ)城と改称した。兄長可を追いだした北信土民への報復の機会を待っていたからだと伝える(『松代町史』上)。これを松平忠輝が松城(まつしろ)城とあらためた。松代城と書くようになったのは、江戸中期の正徳元年(一七一一)からであるが、以下、松代と記す。
松代城下町は、真田氏入封(にゅうほう)以前にすでに町々が形づくられていたが、具体的な形成過程は史料がなくて判明しない。真田氏時代に松代町の町年寄をつとめる杭全(くまた)家の系譜では、初代の刑部(ぎょうぶ)正俊は河内(かわち)国(大阪府)の産、武田氏に出仕してその滅亡のとき討ち死にし、二代祐八は武田氏の海津城将高坂弾正(こうさかだんじょう)に仕え、滅亡後海津城南に住んだという。御用商人・町年寄の八田(はった)家は、甲州古関(ふるせき)村(山梨県東八代(ひがしやつしろ)郡上九一色(かみくいしき)村)の住人で、武田氏にしたがってしばしば松代に往来し、元和元年松代町に移住したと伝える。また検断で問屋を兼帯した伴(ばん)家は、近江(おうみ)(滋賀県)から武田氏のころ松代に移住したと伝える(『更級埴科地方誌』③上)。
海津城在駐の軍団を維持するのに商人・職人集団は不可欠だから、当然に武田氏は商人・職人を招致した。そのあとの上杉景勝と森忠政はともに、越後・信濃往来の商人荷が、牟礼(むれ)宿(牟礼村)から善光寺へ抜ける道を横道として禁じ、長沼城下(長野市長沼)へ通らせている(七章参照)。長沼から松代へ通じる道である。長沼城下とともに松代城下の商工業者を保護育成することが意図のうちにあったのは明らかであろう。武田時代に定着した人びとにあとの諸大名に随行してきた人びとが加わり、真田氏が入封したころには城下町は武家町も町人町も形づくられていた(一章三節二項参照)。
武家屋敷の諸町は、松代城の周辺に重臣・上級武士、中ごろに中級武士、周辺部とくに城下町出入り口付近に下級武士が居住するように配置されている。殿町(とのまち)・片羽(かたは)町・厩(おんまや)町(現殿町)には家老・上士の屋敷が集中している。のちには新御殿や文武学校ももうけられる。中下級武士の町には、柴町(しばちょう)・御安町(ごあんまち)・田町・松山町・袋町・十人町・馬場町(ばばちょう)・代官町・清須(きよす)町などがある。
松代城下町には北国街道が通っている。慶長十六年(一六一一)に牟礼宿から善光寺宿へ通じる道も北国街道として公認されてから、松代通りはしだいに事実上副次的な位置づけに変わってくるが、終始善光寺通りと同等の北国街道である。街道は西からくれば清野村(松代町清野)から入り、途中で鉤(かぎ)の手に曲がって北の東寺尾村(松代町東寺尾)へ抜ける。町人町は、この往還の両がわに西から北へつづく馬喰(ばくろう)町・紙屋町・紺屋(こんや)町・伊勢町・中町・荒神(こうじん)町とその東裏通りの肴(さかな)町・鍛冶(かじ)町の町並みである。「町八町(まちはっちょう)」とよばれた。
初代藩主真田信之は、町奉行を置いて町八町の支配にあたらせた。治安・警察関係には職(しょく)奉行も関与はするが、以来町奉行は町八町のすべてを管轄する役職である。寛永十年(一六三三)六月、信之は町置目(まちおきめ)を定め、町奉行に執行させた。置目には、「町屋敷を明細に改め、これまで無役の地でも証文がなければ役儀を申しつけよ」、「前代から所持してきた屋敷であっても、空き家は召し上げ、他のものに渡せ」「町奉行の許可なしの家の売買は禁止する」などの条項もある。町八町は屋敷の所持・売買まで町奉行の強い管理下に置かれた。
しかし、きびしい管理下に置かれたとはいえ、同時に、町八町が真田氏以前から自治的運営をすすめてきたことも確かである。真田氏入封の翌々年の寛永元年、藩は本山派修験(ほんざんはしゅげん)の京都聖護院勝仙院(しょうごいんしょうせんいん)の求めに応じて、富士・三島・伊勢・愛宕(あたご)・白山参詣は皆神山和合院を頼むよう領民に命じた。その請書(うけしょ)の署名は、「松城惣町(そうまち)中年寄共」と村々の肝煎(きもいり)であった(『信史』24一四〇頁)。松代八町には真田氏以前から町々に「年寄」(肝煎と長(おとな・おさ)町人)が存在し、村の肝煎による村政と同様に、町政にあたっていたことが知られる。
八町には、町役人として八町全体に町年寄と検断、各町に肝煎(のち名主)・長町人が置かれていた。町年寄は八町全体を支配する最高のポストで、ふつう四人がなる。家格・財力とも抜きんでた町人から藩が任命した。苗字(みょうじ)御免に加えて、延享三年(一七四六)十一月の「家老日記繰出(くりだし)」に、「町年寄四人 御参府・御帰城の節、また他所へ罷(まか)り越し候刻(とき)刀帯び候の様申し付く」とあり(『松代藩庁と記録』)、帯刀御免にもなった。杭全・八田家などがその地位につくことが多かった。中町の杭全家は、北国街道松代宿としての宿問屋も兼ねた。なお、城下の松代宿に宿泊する大名はなく、本陣はない。八田家は、屋号菊屋の酒造業をはじめ諸営業で巨富を積み、町年寄をつとめるとともに御用商人として藩財政を支えた。町年寄は八町を代表して藩との折衝や対外的交渉にあたるほか、宿駅伝馬の割りふりや八町割り(町財政の夫銭(ぶせん)割り)をおこない、宗門人詰(にんづめ)改帳・送り状その他の藩へ出す公文書はすべて、各町役人から町年寄(および検断)へ提出される(『更級埴科地方誌』③上)。
検断は伴家がつとめることが多かった。宿問屋もつとめ、町年寄を兼ねることもあった。嘉永七年(安政元年、一八五四)の伴家の「御用日記」(『伴家文書』長野市博寄託)によって、検断の職掌が知られる。宿(しゅく)継ぎ公用荷物の検査や旅人の異変の詮議(せんぎ)などにあたるほか、家屋敷の売買、借家、町民の転出入、縁組・婿養子、御祭礼の大御門(おおごもん)踊り揃え、人詰改め・宗門改めなどがすべて町年寄とともに検断の管轄下にある。年次不詳の伴栄作あて検断役・問屋兼帯申付状(同前)によると、年に籾(もみ)四〇俵を給され、苗字御免、他所御用には帯刀御免であり、年頭御礼(殿様御目見(おめみえ))のさいは町年寄の次席となる。弘化地震で極難渋におちいった肴町は、救恤(きゅうじゅつ)の手だてをとった伴栄作にたいして、町内存続のための「御深志のほど永く忘却せず、年々歳暮として鰤(ぶり)一本を進上申しあげる。もし御代替わり・御退役になられても永続します」と一札を差しだしている(同前)。
各町の名主は、もとは年寄とか肝煎とよばれていたが、後述する村の肝煎と同じく江戸中期に名主にあらためられた。村々の名主とほぼ同一の職務をもつ。当初は藩の人選による任命であったと考えられるが、宝暦二年(一七五二)の「町年寄日記」(『八田家文書』国立史料館蔵)によると、名主が退役したあと入札(いれふだ)(選挙)がおこなわれ高点者が名主に任命されている。以後も入札の記録があり、これが常態化したと思われる。
長町人は名主を補佐する。町内文書は名主・長町人に差しだされるし、八町連合の文書の連判などにも名主だけでなく長町人が加わることが多い。文化十年(一八一三)四月一日、紙屋町の甚左衛門は町奉行所によびだされ名主同道で出頭したところ、「当町長町人御役仰せ付けられ候」と長町人に任命された。早速御礼まわりをして、町奉行へ青銅(銭)三〇疋(ぴき)、町年寄・検断・紙屋町名主へ各二〇疋を進上した。追って四月十一日「長町人につき以来上下(かみしも)御免」と達せられた(「御用向願書留日記」『浦野家文書』長野市博蔵)。
文化十一年三月、八町名主・長町人は連名で町年寄・検断に願書を差しだした(同前)。つぎの三点の願いである。①公用で交渉ごとに他出するさい、御用向きの成否にかかわるので、苗字・帯刀御免にされたい。②八町役人には年頭御礼の機会がない。今般御上様御昇進(藩主幸専(ゆきたか)が弾正大弼(だんじょうだいひつ)と改称)につき年頭御礼をしたい。③御上様の御帰城・御参府を馬喰町外れでお迎えするさい、近年新参のものが上位に立っているが、町に数代にわたって住み功績のある名主・長町人を御町年寄・検断の次席にされたい。この願書への回答は、検断所において町年寄から申し渡され、①②は否認され、③のみが認められた(同前)。