町八町の役儀

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寛永十年(一六三三)の町置目にも役儀の条項があったとおり、町八町はそれぞれ、藩の役儀を負っている。寛永七年十一月、紙屋町は御紙役銀を上納した。町の四〇軒が御紙役を負い、うち一六軒は銀二〇匁役(本役)、一軒は一五匁役(七半役)、一二軒は一〇匁役(半役)、一軒は五匁役(四半役)で、計銀四六〇匁となる。このうち銀二〇匁分は現物の鼻紙で御城へ納め、残り四四〇匁を金銀で上納した(『信史』25四二三頁)。御紙役は当初、紙屋町の町名のように紙漉(す)き職人が多く住み、御用紙の現物を上納することを中心としたものであろう。それがしだいに代銀納中心に変化したと思われる。真田氏はこのような町々の役儀の仕法を前代から受けついだにちがいない。

 寛文十一年(一六七一)に八町それぞれの名主・長町人が藩に提出した「町間(ちょうけん)改帳」に、各町の役儀が記されている(『県史』⑦六八八)。町間帳自体は、寛文十一年の原帳はないが、後年幾度となくこれをそのまま写した帳面が提出されるので、記載内容を知ることができる。たとえば紙屋町間帳(『伴家文書』長野市博寄託)をみると、町を東西につらぬく北国往還の両側に屋敷図が描かれ、各屋敷図に往還に面した表口とその反対側の地尻(ちじり)の間数が寸単位まで書かれる。また、隣家または用水・川などに接する東西両がわの奥行き間数も書かれる。そして屋敷地の所持者と負う役儀が記されている。各屋敷の役儀は、屋敷の間口間数に応じて本役のほかに半役・四半役などが存在した。

 寛文十一年町間帳の町々の役儀を表示すると、表14のようである。役儀は各町の通りに面した間口の総間数、つまり家々の表口間数の合計にかけられる。表14-(1)の役儀間数がそれである。役儀を負う家数も表示のようであるが、これは実態としてはしだいに分割、細分化されていく。では、役儀とは何をするのか。各町の役儀は表14-(2)のとおりで、委細は表示にゆずるが、紙屋町には御紙役銀、紺屋町には御城畳縁(へり)染め・御馬道具一式染めなど、町名にみあう役儀がみられる。城下町成立期には職人町であったことの尾をひいているものであろう。


表14 寛文11年(1671)町八町の役儀

 伊勢町・中町・荒神町・肴町・鍛冶町の五町は同一の役儀を列記している。さまざまの伝馬(てんま)役はすべてこの五町で負っており、御役勤めも同様である。御役塩の負担は鍛冶町にはない。他の四町のうち肴町だけが五石余と多いが、これはかつて塩・肴営業を独占した海産物商人町の余映であろう。ほかの三町の御役塩も肴町がまとめて上納する。他の役儀はほとんど五町共通、共同でおこなわれるものである。表中の御馬場砂入れ(普請)人足については、三ヵ年に一ぺんずつ砂入れをおこなう慣行であった(宝永二年「家老日記」)。馬場は九二間あり、馬喰町六間三尺四寸、紙屋町八間四尺六寸、紺屋町一〇間五尺七寸、伊勢町・中町各一九間四尺三寸、荒神町一〇間五尺七寸、肴町八間四尺六寸、鍛冶町六間三尺四寸と分担が定められている(『浦野家文書』長野市博蔵)。

 寛文十一年の町間帳は長く継受される。のちの文化四年(一八〇七)二月にも、寛文十一年帳の写し帳を提出するよう命じられたが、紙屋町町間帳控(浦野家文書)には「寛文以後度々(どど)改めこれあり」との注記がある。このあと文政十三年(天保元年、一八三〇)五月にも各町の名主・長町人が写し帳を提出し(伴家文書)、弘化三年(一八四六)六月にもまた提出している(紙屋町共有)。

 毎回、町間数と軒数は同じに書き上げているが、役儀負担者の実態は動く。天明八年(一七八八)紙屋町の善五郎は家屋敷を喜惣治に売り渡した。家屋敷の売買証文には所定の厳格な様式がある。最初に喜惣治あて善五郎の証文を記す。町間帳の図面にある表口・中横・地尻その他の間数をすべて書き、「水道相対次第」といった注記も入る。つぎに五人組全員の保証連判、さらに名主・長町人の奥書連判があり、検断・町年寄に提出される(浦野家文書)。この家屋敷売り渡し証文の様式は、明治四年(一八七一)になってもなお受けつがれている(伴家文書)。

 右の善五郎証文のなかに、「御紙役銀八匁(もんめ)弐分(ふん)壱厘(りん)のところ、代金弐拾七両慥(たしか)に請け取り売り払い申候」との文言(もんごん)がある。家屋敷の買い主は、当然に新たな御紙役銀の負担者となるのである。屋敷を分割譲渡すれば、その間口に応じて御紙役銀も分割される。文化十年(一八一三)に紙屋町名主・長町人が検断・町年寄に差しだした「御紙役銀上納人別帳」(浦野家文書)をみると、町は初期以来の金七両銀一〇匁の御紙役銀を上納するが、それをどう分割負担しているかがわかる。北国往還の北がわ・南がわおよび裏組ごとに屋敷の配列順に名前と表口間数・御紙役銀高が記されている。名主屋敷とその使い走りをする「ありき」屋敷など四軒は無役で、他は御紙役銀を負担するが、その人別負担高は表15のようである。銀二〇匁(本役)・一〇匁(半役)および五匁(四半役)が計三三軒を占めて多いとはいえ、ほかに銀一七匁七分七厘以下さまざまな御紙役銀高がみられ、屋敷の分割が単純でなかったことを示している。全体では、寛文十一年の三五軒から四九軒に増えている。


表15 文化10年(1813)紙屋町の御紙役銀上納人別

 荒神町は五町のひとつとして御役塩一石七斗五升を負っているが、いつからか塩肴振売(しおさかなふりうり)御免許札五枚がつくられ、この札を借りて塩・肴の振り売り(行商)を営むものが塩三斗五升ずつを、ただし現物でなく代金で上納する仕法になっている。嘉永四年(一八五一)の実態では、五枚の札は荒神町の三平へ一枚、木町の平兵衛ら三人へ各一枚、鏡屋町の栄八へ一枚と他町のものにも貸しつけられている。年々の塩相場による代金を荒神町役元が受けとり、肴町役元へ納める(松代荒神町 西沢光一蔵)。塩が貴重品だった近世初頭には各町で現物の御役塩を上納したにちがいないが、そこからはるかにへだたった納め方に変わってきている。