松代城下町の家数・人数が江戸初期にどれだけあったかは皆目わからない。江戸前期の寛文十一年(一六七一)、町八町の町間帳にみられる軒数は四〇五軒である。人数ではおよそ二〇〇〇人ほどであろう。
別に存在する武家人口も不明だが、廃藩当時の徒士(かち)以上の家臣数は八七九人であったから、家族や奉公人をあわせて四五〇〇人前後にはなろう。この武家人数のほうは、前期・後期の城下町絵図の武家屋敷面積があまり変わっていないし(『更級埴科地方誌』③上)、幕府軍役規定からいっても、前期以来さほど変わっていないと考えられる。
町八町の町人人口のほうは、江戸中期・後期と漸増した(表16)。明和四年(一七六七)が二三一九人、文化十年(一八一三)が二四四四人、安政七年(万延元年、一八六〇)が二八六五人である。明和四年にたいして一〇〇年足らずあとの安政七年には一・二四倍の伸びである。増加度は八町それぞれで若干の差がある。同じ期間に多いほうでは、中町一・三八倍、伊勢町一・三四倍、鍛冶町一・三〇倍など、少ないほうでは荒神町一・一二倍、肴町一・一三倍、紺屋町一・五倍、馬喰町一・一六倍などである。増加度の大きい町は、安政七年の大屋、借屋・借地、それに裏通りにある裏借屋の別でみると、筆頭の中町は裏借屋九四人・借屋・借地一〇三人、二番めの伊勢町は借屋・借地だけで九一人と、これらの人びとが多い。八町全体では借屋・借地と裏借屋で八三〇人にのぼる。増加住民の多くは借屋・借地および裏借屋として住みついているとみてよい。
町八町に関するかぎりでは、増加はしていても、信州の他の城下町や善光寺町とくらべて人口増加は大きくない。これは、町八町のなかの屋敷地の狭さからくる制約、限界によるものと思われる。しかし、松代町の場合には、ほんらいの町人町である町八町と別に、藩が「町外(ちょうがい)」ないし「町外町(ちょうがいまち)」として把握している住民がいる。町八町以外の空間に形づくられてきた居住地に、少しずつかたまって住む住民である。主な場所としては、①武家屋敷内と中下級侍町の一部、②寺社境内地、③隣接村内へ延びて町場化した区域がある。いわば、城下の武家町や寺町の隙間にもぐりこんだり、町まわりの村へあふれだしたりした住民たちである。
「片岡志道(しどう)見聞録」の明治十一年(一八七八)の巻に、「七十年このかた家数の多くなりし事夥(おびただ)し、又新道も所々に出来たり」とある。七〇年前といえば、文化初年のころである。見聞録には、武家屋敷の家中長屋、寺院の寺屋敷などに居住者があふれ、新馬喰町をはじめ町八町の外、隣接村の年貢地のなかに家屋が建てられ人数が増していくようすが、手にとるように描かれている(北村保「松代藩士の見聞録にみる江戸後期の松代城下町」)。
藩がこうした住民居住地を町外町として掌握した始まりはわからない。文政四年(一八二一)には、八八ヵ所が町外として把握されている(『県史』⑦一二四)。金井左源太抱(かかえ)屋敷といった多くの武家屋敷内の長屋、大英寺・大信寺・大林寺などの地中(じちゅう)(境内)、清野村に入りこんだ新馬喰町とか西条村内の新御安口(しんごあんぐち)などである。八八ヵ所のそれぞれに名主または肝煎が置かれる。この文政四年の人詰改めでは、町外町の合計は一二〇五人であった。人詰改めは男だけなので、住民数は二四〇〇人ぐらいであろう。その後いつからか町外町は、い組・ろ組・は組といったように、いろは順に三五組に編成してとらえられるようになった。慶応三年(一八六七)の男女人別改め(『更級埴科地方誌』③下)の結果は、三五組全部で、軒数は七一〇軒(大屋四九九軒・合地(あいじ)八軒・借屋一五八軒・借地三八軒・その他七軒)、人数は二七一〇人(男一三五九人・女一三五一人)であった。文政年間より増加している。
町外町は、町八町が町年寄・検断、各町名主・長町人以下の自治組織で運営されているのと異なり、藩役所の直接的な支配下に置かれ、その住民も厳密には町人身分ではない。しかし、これも事実上松代城下町を構成するから、幕末期の城下町人口は、武家の約四五〇〇人、町八町の約二九〇〇人、町外町の約二七〇〇人の合計一万人程度であったろう。ちなみに、明治九年(一八七六)調べの戸口(『町村誌』東信篇)では、戸数は二〇〇六戸(本籍一九七一戸・寄留九戸・社八戸・寺一八戸)、人数は男四二四九人(士族二一五〇人・平民二〇九九人)、女四二〇六人(華族二人・士族二〇三八人・平民二一六六人)、合計八四五五人であった。
町八町の身分階層は、すでにこれまでの史料にも出てきているが、宝暦三年(一七五三)荒神町大屋・借屋人詰御改帳によれば、大屋・借屋・借地・役代と、ほかに加来(からい)・下人(げにん)という別があった。大屋は一軒前の町人、役代(家代)は家屋敷を所有者に代わって管理し町役を代理してつとめるもの、加来は大屋に従属するもの、下人はこの時期の用例では年季奉公人である。
町の役儀を負うのは大屋の義務でも権利でもあり、大屋が狭義での町人身分であろうが、借家・借地・役代にも町人の肩書が付されている(『更級埴科地方誌』③上)。町内生活上、役代はもちろん、借家・借地も相応の負担をするからであろう。文政七年(一八二四)の紙屋町を例に、大屋と借屋が出している町内の諸御初穂のたぐいを表17に示した。裏大屋・裏借屋があるが、これは北国往還からはずれた裏がわにある。時の鐘撞(かねつ)き料のように平等に恩恵をこうむるため大屋と借屋とが同一銭額のものもまじるが、だいたいのところ借屋は大屋の半額の負担であった。これは、荒神町でも似た実情である(西沢光一蔵)。