町の上水道

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松代城下町に上水道が敷設される前は、飲用水や生活用水(炊事用・洗濯用など)は掘り井戸のみに依存していたと思われる。上水道の建設がいつから始まったのかはわからないが、江戸前期には着手されていた。明暦(めいれき)三年(一六五七)の家中役職のなかに「水上奉行」がみられる(「大鋒院殿(たいほういんでん)御事蹟続編稿」『新史叢』⑱)が、これは水道奉行であろう。元禄六年(一六九三)六月調べの「御家中ノ町割門付覚」(「松代古代御日記書抜其外書類写」『浦野家文書』長野市博蔵)の家中役職には、「水道奉行」として雨宮伴右衛門(五〇俵三人扶持)・金子伊左衛門(六〇石)・仙道市郎兵衛(禄記載なし)が記されている。水道奉行は、上水道敷設普請の進行と保守管理を主な業務とする役職である。

 宝永二年(一七〇五)の「家老日記」(『松代真田家文書』国立史料館蔵)には、上水道工事にかかわる左の二点の記事がある(抜粋)。

①(五月三日)頃日(ころひ)渇水に罷(まか)りなり、水道水通り兼ね申し候、これにより水道用水昼のうちは通し、夜は御洗水へ通し申すべき哉(や)、または用水朝晩通し、昼のうち御洗水に懸け、夜御家中用水に通し申すべき哉、水道役人相伺い候、日のうちは家中用水に懸け、夜は御洗水へ懸け候て然るべく候、然しながらいずれも申し談じ挨拶(言上)致すべく候、今日当番一人御城へ罷りいで候様挨拶(指示)致し候、

②(六月十日)水道方へ入り候角木、当分手支え候由、左候わば手支え候わぬ様相渡さるべきむね高田加兵衛へ申し渡し候、当分御人御座なく候間、水道方へ渡し置き候十人の足軽にて三、四本ずつ車にて取り申すべき由加兵衛申し候につき、その段水道方へ申し談じ手支え候わぬ様致さるべきむね申し渡し候、

 すでにできている水道が渇水がちであったこと、資材不足をきたすほど普請工事がすすめられていること、普請進捗のため足軽一〇人が水道奉行に付けられていること、などがわかる。

 寛延三年(一七五〇)の城下水道絵図(『松代真田家文書』同前蔵)により、この年までに通じていた水道の全容が知られる。ただし、暗渠(あんきょ)か開渠(かいきょ)か、川を渡すときは底樋(そこひ)か架橋(かきょう)かといった技法的なことはわからない。水路の通じている道、分岐点、汲(く)み出し口(汲井戸)、それぞれのあいだの間数などはわかる(写真6)。


写真6 寛延3年(1750)松代町上水道配置図
(『松代真田家文書』国立史料館蔵)

 水源は、松代城の御堀と同じく関屋川である。大英寺の南方、関屋川の南がわに「堤」(池)が築造され、川の水を導きいれる。浄水池(沈澱池)であろう。ここから関屋川の北へ渡し、大英寺南裏にさらに二つの池がある。関屋川は大英寺の西で分流し、北へ流下する川(A)と西北西へ流れる川(B)との二本になるが、水道は浄水池からAを渡し、Bに沿わせて通したあと、北国往還の紺屋町東端のあたりで二手に分岐させる。一本は北流して殿(との)町に入り、望月治部左衛門(じぶざえもん)・矢沢矢治摩(やじま)などの重臣屋敷の連なる道の東がわをくだる。すえは御馬屋町(おんまやまち)の御馬屋にいたる。他の一本は、北国往還を紺屋町の半ばまで西進し、そこから北転して関屋川Bを渡り殿町に入る。そのあと殿町を南北に通る道二筋に分岐し、それぞれ道沿いに袮津(ねつ)数馬・恩田木工(もく)・小山田(おやまだ)平太夫などの重臣屋敷に水を届ける。以上の上水道の総延長は一二一七間(二二一二・五メートル)であった。

 このように寛延三年段階までの上水道は、もっぱら武家町、それも最上級家臣群の武家屋敷が立ち並ぶ殿町への供給に終始しており、その殿町でもまだ届いていないところが残っている。町八町への水道はまったく目的外であった。唯一、紺屋町を通る延長八七間のあいだに、汲水口が三ヵ所設けられている。絵図の紺屋町から紙屋町への北国往還のところに「八十間水不通」と記されている。水路をつくったが、水がまったく通じなくなったままだという意味らしい。西の馬喰町や紺屋町以東の伊勢町・中町方面などは、まだ絵図の外であった。

 武家町・町人町の主要な道沿いにほぼ水道が敷設されるのは、江戸後期のことである。年次不詳だが、紙屋町の西端神田川までの水道絵図や木町・西木町などの絵図、あるいは神田川寄りに水源池をもうけて中下級武家町の代官町・竹山町・竹山同心町方面へ引水している絵図や、清須町などの水道絵図がある。紙屋町は卯年四月、石井戸の設置願いを水道奉行所に提出した(『松代真田家文書』同前蔵)。外法(そとのり)三尺・内法二尺四方の石井戸、それを囲む三尺四方・高さ一尺三寸の石井桁(いげた)を、計一七両一分を投じて一八ヵ所構築するというものである。水道の汲井戸にちがいない。それを町内一八ヵ所にもうけるほどに水道の網の目ができてきていた。

 武家屋敷では、現在でも面影が残っているように、水道から引きこんだ水で庭先に泉水(せんすい)をつくっていた。図1は文政十一年(一八二八)三月の一例である(『松代真田家文書』同前蔵)。化政(かせい)期(一八〇四~三〇)以降、内職に泉水で淀鯉(よどごい)(真鯉)を飼育するものもいた。


図1 武家屋敷の泉水 文政11年(1828)
(『松代真田家文書』(国立史料館蔵)により作成)

 水道奉行所は、新水道の造築と管理保全に追われるとともに、しきりに提出されるさまざまな願いに対応しなければならなかった。武家からも町家からも、水道の渇水、分割給水、破損修理、屋敷売買にともなう水道の措置などの願書が差しだされる。そのいっぽう、水田用水を関屋川に依存する田中・加賀井・長礼(ながれ)(松代町東条)、平林・桑根井(くわねい)・牧内(まきうち)(同豊栄(とよさか))などの村々、神田川に依存する西条(にしじょう)(松代町西条)・清野(同清野)などの村々からは、渇水のつど、水道用水や御堀用水の半分とか三分の一を分けてほしいという切実な訴願が出される。

 逆に、水道奉行がわから「御泉水旱水(かんすい)につき」と武家・町家の水道使用制限を求めることも再々であった。また、家老の指示をうけて水道奉行が毎年、廻状によって通達して強く求めるのは、水道用水の水質保全に関することである。明和六年(一七六九)二月の家中あて廻状はつぎの文面で、年々趣意は同じであった(同前)。

例年の通り、銘々屋敷境・堰曲根(せぎまがりね)等、有り来たり候通り相糺(あいただ)し、門前石垣これある者損じ候わば、その時々繕い、常々見苦しくこれなき様掃除等まで心付け、内水取り候わば取り捨て成らざる様水末本川へ流し、尤(もっと)も用水の内へ塵芥不浄(じんかいふじょう)の物を捨てず、ならびに洗濯物等浸(ひた)し申さず、悪水流れ込みこれなき様、隣家相互に申し合せ吟味致し候様相触るべきむね、自然麁末(そまつ)の儀見懸け候わばきびしく相改むべきむね、御用番(月番家老)仰せ渡され候間、この段御意(ぎょい)を得(う)べく候、以上、

  明和六年二月