村々の町宿

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城下町や領主役所の所在地には、領内村々から訴願や裁判などに出てきた人びとを宿泊させる宿がかならず存在した。これを、江戸では公事宿(くじやど)、中野(中野市)・中之条(坂城町)などの幕府代官所の場合は郷宿(ごうやど)とよんだが、松代町では町宿(まちやど)と通称された。

 町宿は、村々から代官所・奉行所・評定所など諸役所に訴願や裁判に出てきたものを宿泊させるが、宿泊ばかりではない。①訴状の作成を指南し、または代書人として作成する、②訴訟手続きを代行し、取り調べを受けに役所へ出頭するときには付き添う、③弁護人的な役割を果たすこともある、④吟味中宿預けとなった被疑者の身柄を預かる、などの機能をはたした。さらにときとしては、民事的係争を内済(ないさい)でおさめるため扱い人(仲介人)の役割をつとめることもあった。

 松代藩では、刑法に相当する御仕置定書はあり、八代藩主真田幸貫(ゆきつら)のもとで文政七年(一八二四)十二月に改定した御仕置定書が知られている(『県史』⑦六一)。しかし、刑事訴訟法・民事訴訟法に相当するような訴訟手続きを明文化したものはまだ知られていない。一般に幕府・諸藩にも少ないようである。したがって町宿にかかわる規定も見あたらない。町宿はおそらく、当初は必要に応じていわば自然発生的に、城下の町家でこれを営むものがあらわれてきたのであろうと思われるが、町・職奉行所も掌握していた。

 村々は町宿を利用したとき宿泊・賄い費を支払うほか、盆・暮などに金銭物品を贈りとどける。村と町宿が不仲になって町宿替えがおこなわれることもあったし、町宿が業務をやめることもあった。町宿の全容は、天保四年(一八三三)の町宿帳(『県史』⑦七四六)、同十四年の町宿帳(『市誌』⑬二一七)が知られている。天保四年の場合を表19に示す。中町二四軒・紺屋町二一軒・伊勢町七軒・紙屋町五軒・穀町五軒・荒神町一軒の計六三軒が存在した。契約をむすんでいる村数には大きな差異がある。伊勢町の栄左衛門と周兵衛の各二六ヵ村を最高に多くの村々をかかえる町宿がある反面、一ヵ村のみという町宿が二五軒もある。一、二ヵ村程度ではまったくの片手間仕事にすぎまい。


表19 天保4年(1833)松代町の町宿

 天保十四年になると、町宿数は大きく減って三二軒になっている。一ヵ村のみの町宿は五軒に減少した。自然淘汰(とうた)ばかりの結果ではなく、藩の介入、指示があってのことと考えられる。