村切りと近世村落の成立

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近世初頭に北信濃に送りこまれた領主たちは、検地を通じて戦国末の郷村制を編成がえし、支配の基礎となる村を定めた。慶長三年(一五九八)の太閤(たいこう)検地、同七年の森忠政検地などがその検地である。慶長三年の高井郡中島村(須坂市)の検地帳の表紙には、「井上村ノ内中島村」とあるが、これはそれ以前の井上村(井上郷)を「村切り」して中島村を独立の一村としたことを示している(一章参照)。村切りしてその集落と田畑および里山の村境を定めた(人の利用のおよんでいなかった奥山の村境、したがって郡境・国境には未確定なところが残る)。そして、その範囲の一枚ごとの田畑や屋敷地の石高をきめてそれを合計して村高を決定し、以後はこの村高を、村に年貢をかけるときにも支配層に知行地を給するときにも用いる。

 近世の村はこのように領主の手で設定されたが、しかし、上から一方的に強行されたものではなかった。すでに中世的な郷村制がくずれて進行してきていた村の自立動向と集落・耕地のまとまりをふまえ、この時期としてはもっとも無理の少ない形で行政単位の村が定められたといえる。近世の村は全国的におよそ村高四百数十石程度が平均であるが、慶長七年検地で定まった現市域における各郡の村高について、その合計と平均および最大・最小村高をみると表20のようであった。市域の四郡村高平均は五八六石余になるが、村高の大小差はきわめて大きかった。このことは、領主による村切り、村の設定が画一的に強行されたのではなく、在地の実態に即して民意を取りいれておこなわれたことを物語っていよう。


表20 慶長7年(1602)検地で定まった市域各郡の村高

 一〇〇〇石台、二〇〇〇石台といった村は近世村としては過大であるが、中世末以来のまとまりが強くて村切りにいたらなかったとみられる。更級郡最大の塩崎村は中世末には塩崎郷とよばれ、天正(てんしょう)十年(一五八二)の康楽寺あて森長可禁制(ながよしきんぜい)にも「塩崎之郷」と書かれたが、同十二年の上杉景勝による禁制では「塩崎 右当村に於いて」として郷名から村名に変わった。慶長七年検地ではそのまま一村として把握したのであった。村内にはいくつもの枝郷(えだごう)(枝村)をかかえており、江戸中期以降になると村政を本郷の庄屋のみでとりしきることに争論が生じ、篠ノ井組・山崎組にも庄屋を置くことが多くなる(『塩崎村史』)。

 俗に「綿内三〇〇〇石」といわれた高井郡綿内村は、市域最大の村高である。慶長十六年九月につくられた松平忠輝家臣の綿内村内知行割り定め書には、ぬる湯村・田中村・春山村・牛池村・大橋村・前山田村・麦田村などの名が書かれている。これらの集落は村的なまとまりを形づくりつつあったが、単独村となるにはいたらず、戦国期以来の綿内村に包括された姿を示していると考えられる。しかし、三〇〇〇石もの過大村の村政を運営するため、すでにこの年肝煎(きもいり)(のちの名主)が四人置かれていた。ぬる湯・田中などの村は、綿内村のなかの「組」になった。万治(まんじ)二年(一六五九)八月、綿内村には本屋(ほんや)一七七軒、相屋(あいや)一七軒、計一九四軒が存在したが、村は本郷の上町組・下町組・上裏町組・中裏町組・下裏町組などと、温湯(ぬるゆ)組・田中組・春山組など在方の枝郷との、あわせて二〇の組でなりたっていた(『市誌』⑬一七四)。

 右のような過大村にかぎられたことではないが、時期がくだるにつれて、村に包みこまれていた枝郷、それにその後成立した新田枝郷の自立志向が強まり、分村を求める村方騒動(むらかたそうどう)(村政をめぐる村内紛争)が増す。これにたいして領主がわは、まれな例外をのぞいて分村は認めなかった。多くの場合、村内を組分けし、村役人の一部を別に立てることで落着した。現市域ではこうして、近世初頭に形づくられた村々が、近世を通じてほとんどそのまま存続する。ただし、松代藩は領政上、村役人、年貢上納等を分けた組分け村を別村扱いすることが多い。