初期の肝煎支配と村民

401 ~ 404

近世初頭に成立した村で、年貢上納をはじめ村政全般にあたった村役人は、信州どこでも肝煎とよばれた。慶長八年(一六〇三)に松平忠輝領となった北信四郡で支配固めをすすめた大久保長安(ながやす)は、同年十一月に領内条目を出したが、そのあて書は「ふるま之郷 きもいり衆・惣(そう)百姓中」のようであった(『信史』⑲五四七~五四九頁)。翌九年八月、長安の代官が出した窪寺(くぼでら)村(安茂里)月輪寺(がつりんじ)寺領寄進状は「肝煎衆新左衛門殿・段右衛門殿」あて、同じく津野村(長沼)妙笑寺への寄進状は「肝煎長右衛門殿」あてであった(『信史』⑳四頁)。同年九月改定の四郡草山年貢帳は、山元村々の肝煎を山年貢の上納責任者とした(六章参照)。元和(げんな)八年(一六二二)に松代に入封(にゅうほう)した真田信之(のぶゆき)も肝煎の呼称を受けついだ。たとえば同九年七月、稲積(いなづみ)村(若槻)をこれまでどおり伝馬(てんま)町(宿)と定めた信之重臣の連署状は、「肝煎・百姓中」にあてて出されている(『信史』24二二頁)。

 肝煎というのは、あれこれ世話をする人といった意味合いの普通名詞からきて、村役人の職制呼称として使われたもので、村の「おとな(乙名・老・長)百姓」の最有力者が領主から任命された。武田信玄が村々のおとな百姓を招集したり軍役動員の対象ともしたように、戦国期のおとな百姓はひろい田畑と従属百姓をかかえ、戦陣におもむくこともあるような有力百姓であったが、武力は失ったけれどもその力は近世にもちこまれた。上杉景勝領時代の文禄(ぶんろく)元年(一五九二)、山境争いをつづけていた更級郡山布施郷(篠ノ井)と水内郡笹平(ささだいら)村(七二会(なにあい))は、海津城役人の仲介によって和解し、議定証文をとりかわした。山布施郷の証文は大炊助(おおいのすけ)ら三人が印判をおし、笹平の「まち衆中」に渡した(『信史』⑰四六六頁)。笹平が「町」であったことも知られるがそれはさておき、山布施郷を代表して署名している三人は郷村のおとな百姓にほかなるまい。

 慶長七年森検地のなかから、水内郡岩草村(七二会)を例にとってその百姓別の検地名請高(なうけだか)をみると、表21のようである。名請高からいっても屋敷からいっても、群を抜いて大規模な宮内右衛門(くないえもん)は、戦国期の半農半士の小領主の系譜をひき、村の肝煎になる。肝煎とともに村政に加わるおとな百姓は、はっきりはしないが、名請高で十数石以上、屋敷地で一〇〇坪をこすような数人が該当しよう。その他の村民で、一〇石前後から下の、屋敷をもつ人びとは平(ひら)百姓などとよばれた層にあたる。わずかな高で、しかも屋敷をもたない人たちも多いが、かれらは一軒前の百姓ではない。屋敷がなく田畑も少なすぎるから、上層百姓から屋敷や田畑を借りこれに従属せざるをえない。


表21 慶長7年(1602)水内郡岩草村百姓の検地名請高

 森検地は太閤検地と同様に、小百姓層を名請人に取り立てる方針をとった。弥三郎と弥次郎、また新八郎と新九郎などは、名前の共通性に加えて、検地帳の配列順からみてほとんどの所持田畑が隣りあわせているから、兄弟にちがいない。この四人は、それぞれ屋敷と自立百姓として経営がなりたつ規模の田畑を所持している。分割前の規模からすると、おとな百姓の仲間に数えてよい存在であろう。名請人の名前からみると、源次郎・源三郎・源四郎・源五郎・源六・源七郎、あるいは与太郎・与次郎・与三郎・与四郎・与五郎・与七郎・与九郎などもそれぞれ兄弟かと思われる。しかし、このなかには屋敷がなく零細高で、とうてい一軒前の百姓ではありえないものがふくまれている。一般に森検地では、無理強いして小百姓の名請人数を増した形跡があり、のちの諸領検地、たとえば須坂領の元和・寛永年間(一六一五~四四)の検地、飯山領の慶安(けいあん)~寛文(かんぶん)(一六四八~七三)検地、松代領の寛文六年(一六六六)検地で、おそらく実態に応じて整理した結果と思われるが、名請人数が大幅に減少する。

 慶長十三年五月、木曽代官山村良勝(たかかつ)は領内村々の年貢・課役などを定め、違反者がいたら当人はもとより「肝煎・老(おとな)百姓曲事(くせごと)(刑罰)に申し付くべく候」と申し渡した(『信史』⑳三〇四~三〇五頁)。北信でも同様で、おとな百姓とそのまた代表である肝煎は、村政のいっさいに責任を負う存在であった。それはとりもなおさず、かれらだけが村内で卓越した力をもち村運営を専断的にとりしきる存在であったということを意味する。当時の村は、このようなごく少数の有力百姓家の連合体といってよい実態で、有力百姓の家に従属しているものはもちろん、自分の田畑と家屋敷をもつ平百姓層以下の村民の大部分は、村政や村運営への参加権をもたなかった。山野や用水の利用なども、おとな百姓らの恩恵に頼らなければならない村が多かったようである。